七五三の晴れ着や茶道の稽古着で見かける、着物の上にふわりと重ねる丸みのある上着。あれを漠然と「着物用のコート」とひとまとめに呼んでいる人は多いが、実は被布・道行・道中着という、それぞれ別の名前と歴史を持つ衣服だということは案外知られていない。なぜひとつの「羽織るもの」に、これほど複数の呼び名が並び立っているのか。その背景をたどると、女性が長らく羽織を着ることを許されていなかったという、和装ならではの事情が見えてくる。
女性に羽織が許されなかった時代、外出着はどうしていたのか
今でこそ性別を問わず自由に袖を通せる羽織だが、もとは男性の礼装・実用着として位置づけられてきた衣服で、女性が公の場で羽織を着るようになったのは大正から昭和戦前期にかけてのことだったとされる。Wikipediaの羽織の項目によれば、この時期になって女性が歌舞伎見物や茶会、同窓会といった社交の場に出るようになったことを機に、それまで男物の礼装だった羽織が女性の「おでかけ着」としても使われ始めたという。裏を返せば、それ以前の女性には、着物の上から羽織って外出するための一枚が公式には用意されていなかったことになる。防寒や埃よけのために着物の上へ何かを重ねたいという需要そのものは当然あったはずで、その空白を埋めるように育っていったのが、これから見ていく被布や道行、道中着といった一群の上着だった。
被布はもともと男性の防寒着だった ― 茶人・俳人が愛した一枚
被布と聞くと、七五三の三歳児が着るリボンつきの愛らしい上着を思い浮かべる人が多いだろう。しかしこの衣服は、もとは成人男性のための防寒着として生まれたものだった。Wikipediaの被布の項目によれば、起源ははっきりしないものの享和年間(1801年~1804年)ごろから使われ始めたとされ、当初は茶客や俳人など男性に限って着用されていたという。名前の由来についても同項目は、帯を締めずに羽織るため、風にあおられて裾が「披く(ひらく)」ことから来たと説明している。帯で体に密着させて着る着物とは対照的に、ゆったりと体を覆うように仕立てられたその形そのものが、名前の由来になっていたことになる。
文政の頃に女性へ広がり、今は七五三の定番になった被布
男性の防寒着として始まった被布が大きく姿を変えるのは、文政年間(1818年~1830年)に入ってからのことだ。同項目によれば、この頃になると「婦女や尼僧に至るまで幅広く着られるようになった」といい、羽織が男性の礼装として定着していくのとちょうど呼応するように、被布は女性にも開かれた上着として位置づけを広げていった。同項目はさらに、被布の保温効果が老人や子どもに着せると「上品でかわいい」とされたことにも触れており、体力のない世代を寒さから守る実用着として重宝されてきたことがうかがえる。帯を締める代わりに紐で前を留めるだけというこの構造は、体への負担が少なく着付けの手間も省ける工夫であり、これが現代にそのまま受け継がれた形が、七歳の帯解きに先立つ三歳の祝い着だ。今では少女用の袖なし被布が一般的で、三歳女児向けの七五三衣装セットを注文すると、たいてい被布がセットに含まれている。帯を締めきれない幼い体に配慮した実用着という出発点が、二百年近く経った今もそのまま活きているわけだ。
道行衿と道中着衿 ― 四角い衿と丸い衿は何が違うのか
被布と並んで広く使われている和装コートに、道行と道中着がある。どちらも着物の上から羽織り、衿を打ち合わせずに着る点は共通しているが、衿の仕立て方には明確な違いがある。道行は、前を四角い衿もとで縁取るように仕立てられており、この四角い形から「道行衿」と呼ばれる。一方の道中着は衿もとに丸みを持たせて仕立てられることが多く、道行に比べてやわらかく、ふだん使いに近い印象を与える。道中着よりもさらに丸みを強めた「千代田衿」と呼ばれる衿の名も伝わっている。「道行」も「道中」も、もとは旅路や外出そのものを指す古い言葉で、旅装束の系譜を引く名前だといえる。Wikipediaの道行の項目でも、歌舞伎や浄瑠璃の演目で登場人物が旅する場面を描く演出を「道行」と呼ぶ用法が紹介されており、道を行く、道の中にあるという言葉の響きが、そのまま外出着の名前へ転用されたと考えるのは無理のないことだろう。もっとも、どちらの衿の呼び名が先に定着したのかについて、はっきりとした記録は残っていない。
雨の日の一枚 ― 「合羽」から続く和装レインウェアの系譜
被布や道行が防寒や外出着としての性格を持つのに対し、雨の日専用に仕立てられるのが雨コートだ。撥水加工を施した生地で着物と帯をすっぽり覆い、裾さばきの邪魔にならないよう仕立てられているのが特徴で、傘とあわせて使うことで着物を雨や泥はねから守る。この「和装のための雨具」という発想自体は新しいものではなく、さかのぼれば江戸時代の合羽にたどり着く。Wikipediaの合羽の項目によれば、「合羽」という言葉自体、ポルトガル語の「capa」を音写したもので、16世紀に来日した宣教師が着ていた外衣がその起源とされる。当初は羅紗を用いた贅沢な品として織田信長や豊臣秀吉ら武士に珍重されたが、江戸時代に入り富裕な商人や医者までもが贅を競うようになると幕府が規制に乗り出し、代わりに桐油を塗った和紙製の合羽が広く出回るようになった。同項目によれば、寛保年間(1741年~1744年)には懐に収まるほど小さく畳める「懐中合羽」まで考案されたといい、携帯性を追い求める工夫は、今の折りたたみ式レインコートの発想と重なる部分がある。今の雨コートがこの合羽から直接発展したと断定できる資料は見当たらないが、着物という装いを雨から守りたいという課題そのものは、時代を超えて共通していたことがわかる。
コートは脱いでから ― 羽織とコートを分ける、玄関先の作法
被布・道行・道中着・雨コートに共通しているのは、いずれも「外出のための一枚」であって、正式な着物の一部とはみなされていないという点だ。洋装のコートであれば人の家を訪ねてもそのまま着席することが珍しくないが、和装のコート類は、玄関先や部屋に上がる前に脱いでおくのが基本的な作法とされている。これは、コートがあくまで道中の防寒・防塵のための道具であり、室内で相手と向き合う装いの一部には含まれないという考え方に基づいている。一方、羽織は江戸時代から礼装の一部として位置づけられてきた経緯があるため、格の高い羽織であれば室内で着たまま過ごしても失礼にはあたらないとされる場面もあり、この点でコート類とは扱いがはっきり分かれる。同じ「着物の上に重ねる一枚」でも、コートと羽織とでは室内でどう振る舞うべきかという格の位置づけそのものが、もとから異なっているわけだ。
名前の由来を知ってから、もう一度衿もとを見てみると
男性の茶人が羽織った防寒着が被布として女性や子どもに広がり、旅路を意味する言葉が道行や道中着という衿の名前に転じ、南蛮渡来の合羽が今の雨コートに連なる発想を残していく。一枚ずつ由来をたどってみると、「着物用のコート」とひとまとめにされてきた衣服も、実はまったく違う時代と事情から生まれてきたことがわかる。次に七五三や成人式、あるいは雨の日の装いで被布や道行を目にしたときは、その衿の形や名前の由来にも目を向けてみると、これまでとは違う発見があるはずだ。着る当てのないまま箪笥に眠っているコートや被布があるなら、着物買取に相談して状態や価値を確かめてみるのも、手放すかどうかを判断するための材料の一つになるだろう。