帯や振袖の生地に無数の小さな粒が浮かぶ「絞り」を目にしたとき、それが京都の鹿の子絞りなのか、東海地方の有松絞りなのか、見分けがつかないという人は少なくない。同じ「絞り染め」という言葉でくくられていても、粒の大きさも、使われる生地も、育った土地の文化もまったく異なる。木綿の普段着として庶民に愛された有松絞りと、絹の礼装を彩ってきた京鹿の子絞り、それぞれの成り立ちをたどりながら、二つの技法がどこで枝分かれしたのかを見ていきたい。
「絞り」はなぜ染めなのに凹凸が残るのか ― 括りと防染の仕組み
絞り染めは、生地の一部を糸できつく括ったり道具で挟んだりしてから染料に浸す技法で、括られた部分にだけ染料が染み込まないまま残ることで模様が生まれる。型染めや友禅染めのように筆や型紙で色を「置く」のではなく、生地そのものを立体的に加工してから染めるため、糸をほどいたあとも括った跡が独特の凹凸として残るのが最大の特徴だ。京都府の資料によれば、絞り染めの技法自体はインドで生まれ、中国を経て7世紀頃には日本に伝わっていたとされ、日本書紀や万葉集にもその記録が見られるという。奈良時代から続くこの古い染色技法が、江戸時代に入って東西でまったく異なる方向へ枝分かれしていくことになる。
名古屋城の普請とともに始まった有松絞り
名古屋市公式サイトによれば、有松の絞りは今からおよそ400年前、名古屋城の築城にともなって九州豊後から集められた人々が持ち込んだ絞り染めの技術がもとになったとされる。この技を見た竹田庄九郎という人物が「くくり絞り(九九利絞)」を考案し、手ぬぐいに仕立てて売り出したのが始まりだと伝えられている。当時、尾張藩は慶長13年(1608年)に知多郡一帯への移住を奨励する触書を出しており、庄九郎はこの地に移り住んだ最初の8人のうちの一人だったという。有松は東海道の宿場と宿場のあいだに位置する集落で、街道を行き交う旅人たちに土産物として売られるうちに評判が広まり、尾張藩の手厚い保護も受けながら、東海道随一の名産品へと育っていった。
豆絞り、三浦絞り、蜘蛛絞り ― 木綿とともに広がった庶民の技
有松絞りが独自に発展させてきた技法は多彩で、小豆を芯にして布をくくる「豆絞り」、生地を下から指でつまみ上げながら糸を巻きつける「三浦絞り」、鉤針に布を引っかけてひだを取り根元から糸を巻く「蜘蛛絞り」、三角形の板に生地を挟んで染める「雪花絞り」など、道具の使い方も仕上がりの表情もそれぞれ違う。最盛期には100種類を超える技法が存在し、現在でも70種類ほどが受け継がれているという。木綿の生地に藍染めを重ねる組み合わせが中心で、浴衣や手ぬぐいといった日常の道具として庶民の暮らしに溶け込んでいったことも、有松絞りの大きな特徴だ。こうした功績が認められ、愛知県の資料によれば、有松・鳴海絞は昭和50年(1975年)9月4日に国の伝統的工芸品として指定されている。
京鹿の子絞りは、貴族の衣装から広まった技術
一方、京都の鹿の子絞りは、有松よりもさらに古い歴史を持つ。京都府の資料によれば、日本に伝わった絞り染めの技術は10世紀頃には宮廷装束にも取り入れられるようになり、室町から桃山時代にかけては、絞りに描き絵や刺繍を組み合わせた「辻が花染」が一世を風靡した。江戸時代に入ると「かのこ」「鹿の子絞」「京鹿の子」といった名前で技術がさらに洗練され、生地全体を絞りで埋め尽くす「総絞り」や友禅染めと組み合わせた意匠も生み出されながら、17世紀末の元禄期に最盛期を迎えたとされる。染め上がった生地の模様が、子鹿の背中に散る白い斑点によく似ていることから「鹿の子」の名がついたと言われている。
「総鹿の子」はなぜ贅沢を象徴する柄になったのか
生地の全面を鹿の子絞りで埋め尽くす「総鹿の子」は、江戸時代を通じて庶民の憧れであると同時に、幕府にとっては目に余る贅沢品でもあった。一粒ずつ手作業で括っていく総鹿の子は、一疋の反物を仕上げるだけでも膨大な手間と時間を要し、それに見合うだけの価格がつけられた。あまりの贅沢さゆえに、たびたび発令された奢侈禁止令のなかで名指しで規制の対象にされたこともあったとされ、地味な色柄への統制が進むほど、逆に鹿の子絞りの希少価値は高まっていったとも考えられている。手間そのものが価値になるという構造は、機械では再現できない絞り染め特有の性質を、何よりも雄弁に物語っているのではないだろうか。
疋田絞りと一目絞り ― 一粒に人生を賭ける職人の分業
京鹿の子絞振興協同組合によれば、京鹿の子絞りには約50種類もの括り技法があり、なかでも代表的なのが、四つの角を立てて粒を作る「疋田絞り」と、一粒ずつ糸を巻いて留める「一目絞り」だという。京都ではひとりの職人が一つの技法だけを専門に極めることが多く、下絵を描く人、括る人、染める人がそれぞれ分かれた分業体制のなかで、一枚の反物が仕上がっていく。工程は、まず布地に図案を描き、職人が一粒ずつ丹念に括ったあとに染料へ浸して防染部分を作り、乾燥させてから括った糸をすべてほどき、最後に湯のしで幅を整えるという流れをたどる。ひとつの模様に何万もの括りが積み重なることも珍しくなく、この気の遠くなるような手仕事の集積こそが、京鹿の子絞り特有の緻密な立体感を生み出している。
木綿と絹、街道と御所 ― 二つの絞りが分かれていった理由
有松絞りと京鹿の子絞りは、同じ「絞り」という技法を土台にしながら、まったく異なる方向に発展してきた。有松は東海道という交通の要衝で、旅人相手の土産物経済のなかから生まれ、木綿に藍染めを重ねた浴衣や手ぬぐいなど、庶民が日常で気軽に楽しめる品として発展した。対する京鹿の子絞りは、宮廷装束や礼装という格式の高い場で育まれ、絹地に多色を重ねる贅沢な技法として磨かれてきた。使う生地も、括りの粒の大きさも、想定する着用シーンもまるで違うのは、それぞれが「誰のために」発展してきたかという背景の違いをそのまま映しているからだろう。同じ絞り染めでも、有松の生地に触れると素朴でざっくりとした粒感があり、京鹿の子絞りの生地に触れると、粒がびっしりと詰まった精緻な手触りがある。この違いを知っていると、次に絞りの着物や帯を目にしたときの見え方が変わってくるはずだ。
一枚の絞りの向こうに、二つの土地の歴史を見る
有松絞りも京鹿の子絞りも、今では後継者の減少や需要の変化という共通の課題を抱えながら、それぞれの土地で技を受け継ぐ人々によって守られている。手元にある着物や帯に施された絞りが、東海の街道文化から生まれたものなのか、それとも京都の宮廷文化から育った一枚なのか、粒の大きさや生地の質感を確かめてみるだけでも、その一枚が歩んできた歴史がうっすらと見えてくる。もし箪笥に眠る絞りの着物がどちらの系譜か判断できずにいるなら、着物専門店の査定を通じて答え合わせをしてみるのも一興かもしれない。