振袖の裾や礼装用の帯に指先をすべらせると、染めの模様にはない小さな凹凸に触れることがある。染料でつけた色ではなく、糸そのものが布の上に盛り上がって柄を描いているからだ。この凹凸の正体である「刺繍」は、実は染めや織りとはまったく別の系譜を持つ技術で、地域ごとに驚くほど違う個性を育ててきた。京繍・加賀繍・江戸刺繍という三つの流れがどこで枝分かれし、どんな手つきの違いを積み重ねてきたのか、その歴史と技法をたどってみたい。
起源は仏教とともに ― 「繍仏」という祈りの手仕事
日本の刺繍のルーツは、衣服の装飾ではなく仏教信仰にある。Wikipediaの日本刺繡の項目によれば、西暦500年頃にインドから中国を経て「繡仏(しゅうぶつ)」という技法が伝わり、推古天皇の時代に日本国内で広まったとされる。現存する最古の作例とされるのが、奈良県の中宮寺に伝わる「天寿国曼荼羅繡帳」で、聖徳太子の妃らが太子の死を悼み、宮中の女性たちに命じて作らせたと伝えられている。仏の姿を布の上に針と糸で表す行為そのものが祈りだったこの時代、刺繍はまだ「装う」ためではなく「拝む」ための技術だった。奈良時代には正倉院にも刺繍を用いた宝物が伝わっており、平安時代から鎌倉時代にかけては貴族の衣装装飾や、子どもの背に縫いつける「背守り」といった魔除けの意味を持つ刺繍へと、少しずつ用途を広げていくことになる。
桃山時代、刺繍はなぜ「贅」の象徴になったのか
刺繍が装飾技法として最も華やかに開花したのが、安土桃山時代である。金箔や銀箔を接着する「摺箔(すりはく)」と、色とりどりの絹糸を使う刺繍を組み合わせた「繍箔(ぬいはく)」という技法が広まり、小袖の肩から裾にかけて大胆な模様を配置する意匠が流行した。慶長年間(1596年~1615年)に好まれたことから「慶長繍」とも呼ばれるこの様式は、武将の胴服や、のちには能装束にも取り入れられていったとされる。染めだけでは出せない立体感と、金銀の光沢を糸の上にまとわせる贅沢さは、下剋上の気風が残る桃山文化の派手好みと相性がよかったのだろう。江戸時代に入ると友禅染めなど新しい染色技法が台頭し、刺繍は着物全体を覆う主役の座からは退いていくが、代わりに模様の一部を引き立てる加飾技法として、より繊細な使われ方をされるようになっていく。
模様が盛り上がって見える理由 ― 撚りのない「釜糸」という道具
刺繍の柄がなぜあれほど滑らかに盛り上がって見えるのか、その答えは使う糸そのものの構造にある。日本刺繍で使われる絹糸は「釜糸(かまいと)」と呼ばれ、Wikipediaの日本刺繡の項目によれば、4本から12本ほどの細い絹糸を撚らずに束ねたものだという。洋裁で使う刺繍糸の多くはあらかじめ撚りをかけて一本の丈夫な糸に仕上げてあるのに対し、釜糸はあえて撚らないままの状態を保つ。撚りがないぶん糸自体は扱いにくくなるが、その代わり針を通すたびに糸を平たく生地の上に並べることができ、面を隙間なく埋めていくことができる。糸の断面が潰れず平らに並ぶことで光の反射も均一になり、遠目に見たときの艶やかさと、指で触れたときの柔らかな盛り上がりが同時に生まれる。専用の針も糸を通す穴の部分が平たく作られており、この釜糸を傷めずに何度も生地へ通せるよう工夫されている。刺繍台と呼ばれる木枠に生地をぴんと張って作業するのも、糸の張り具合を均一に保ち、面の盛り上がりにむらを出さないための工夫だ。
駒取り・相良縫い・縫い切り ― 名前の違いが生む表情
日本刺繍には数十種類の技法があるとされ、Wikipediaの日本刺繡の項目では「駒取り」「相良縫い」「縫い切り」「割り縫い」といった名称が挙げられている。駒取りは、撚ってしまうと光沢が失われる金糸や銀糸を、いったん「駒」と呼ばれる棒状の道具に巻きつけて生地の上に這わせ、それを別の糸で細かく留めていく技法で、金銀糸そのものには針を通さないぶん強い光沢を保てるのが特徴とされる。相良縫いは、針に糸を巻きつけてから生地に刺し、小さな結び目を連ねるように仕立てる技法で、点々とした立体感を生み出すことから、花の芯や虫の目といった細部の表現に使われることが多いという。縫い切りは糸をまっすぐに渡して面や輪郭線を埋めていく最も基本的な技法で、割り縫いは先に刺した糸の間を割るように次の糸を通すことで、色の境目を目立たせずになだらかなグラデーションを作り出す。同じ「刺繍」と呼ばれていても、どの技法を選ぶかによって、表現できる質感はまったく違うものになる。
京繍 ― 御所文化のなかで磨かれた技
京都府の資料によれば、京繍の起源は飛鳥時代の刺繍にさかのぼるとされ、平安時代には朝廷に「縫部司(ぬいべのつかさ)」という役所が置かれ、衣服装飾のための刺繍が公的に担われるようになった。その後は十二単、武将の胴服、能衣装、小袖と、時代ごとに装う人の階層や用途を変えながら発展を続け、絹織物や麻織物に絹糸・金銀糸を用いて、意匠・糸の配色・繍いの技術を一体化させる表現が磨かれてきた。同じ資料には約30種類の技法が存在し、そのうち繍切り・駒使い繍・まつい繍など15種類が経済産業大臣指定の伝統的工芸品としての技法に数えられていることも記されている。京友禅や西陣織と同じく、京都の工芸は意匠・下絵・仕上げをそれぞれ別の担い手が受け持つ分業によって支えられてきた土地柄でもあり、京繍もまた、御所を中心とする宮廷文化の需要と、都に集まった多様な職人の技術が組み合わさって育った刺繍だと言える。
加賀繍 ― 仏教とともに伝わり、藩主の装いを彩った技
金沢市公式ホームページによれば、加賀繍は仏教の布教にともなって京都から金沢へ伝わったとされ、当初は仏壇を飾る打敷や僧侶の袈裟といった、信仰にまつわる品に用いられていたという。それが加賀藩の力が強まるにつれて藩主の陣羽織や姫君の着物を彩る技へと用途を広げ、模様のない生地に下絵を描き、絹糸・金糸・銀糸を使い分けながら立体感のある模様を仕立てる技法として発展してきた。同資料によれば、昭和初期には着物の半衿に施す刺繍として全国的な人気を集めたともいい、格式ある装束の装飾という枠を超えて、日常の装いに近い場面でも親しまれる技になっていったことがうかがえる。京都から伝わった技術が、加賀という土地の武家文化と結びつくことで独自の発展を遂げていった過程は、染めの世界における加賀友禅の成り立ちとも重なる部分がある。
江戸刺繍 ― 「余白を生かす」という町人の美意識
東京都産業労働局の資料によれば、江戸刺繍も飛鳥時代に仏教とともに伝わった刺繍を源流としながら、江戸時代中期に経済力を持つ町人階級が台頭したことで独自の発展を遂げたという。既存の染色技術に刺繍を組み合わせ、絢爛豪華な着物を次々に生み出したこの流れは、金銀に飾られた武家や公家の刺繍とは違う方向性を持っていた。同資料では、職人が糸の太さや撚りの甘さを見極めながら自ら糸を撚り、駒に糸を巻きつけて生地に這わせながら留めていく「駒縫い」など日本独自の技法を用いること、そして図柄を配置する際に模様を詰め込みすぎず、余白そのものを楽しませるような刺繍の入れ方を特徴とすることが説明されている。京繍や加賀繍が宮廷や武家の格式を背景に発展したのに対し、江戸刺繍は町人が自分たちの美意識で育てた技だと言え、この様式は昭和62年(1987年)7月27日に東京都の伝統工芸品として指定された。
糸の運びを知ってから、もう一度袖に触れてみる
同じ「刺繍」という言葉で括られていても、京繍・加賀繍・江戸刺繍はそれぞれ違う背景から生まれ、違う美意識で育てられてきた技術だった。宮廷文化のなかで分業によって磨かれた京繍、信仰とともに伝わり武家の装いへと広がった加賀繍、町人の余白の美学が生んだ江戸刺繍。どれも根っこにある「撚らない糸で面を埋める」という基本の仕組みは共通していながら、駒取りや相良縫いといった技法の選び方、模様の配置の仕方によって、まったく違う表情の一枚が仕上がっていく。次に礼装用の着物や帯に施された刺繍を目にしたときは、単に「豪華だ」で終わらせず、その盛り上がりがどんな技法で作られ、どの土地の美意識を映しているのかを想像してみると、これまでとは違う見方ができるはずだ。もし手元にある一枚の刺繍がどの系譜のものか判断がつかず、その価値の見極め方に迷うようであれば、着物買取の窓口で専門の目に見てもらうことも、その一枚の由来を知る一つの手がかりになるだろう。