茶色がかった着物と一口に言っても、焦茶、路考茶、団十郎茶、江戸茶と、実際に見比べると微妙に違う色がいくつも存在する。祖母の箪笥から出てきた着物の色合いを言葉にしようとして、結局どれも「茶色」としか言えずに戸惑った経験がある人もいるかもしれない。地味な色ほど名前のバリエーションが豊富だというのは、考えてみれば不思議な話でもある。この夥しい数の茶色と鼠色の名前は、実は江戸幕府が庶民の贅沢を取り締まった「奢侈禁止令」がきっかけで生まれた、規制への抵抗から花開いた色彩文化だった。
「四十八」も「百」も、実は数えた数ではない
着物や染織の話でしばしば登場する「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」という言葉は、茶色系統と鼠色系統の色がそれほど豊富に存在したことを表す言い回しである。ただし四十八種類、百種類ときっちり数えられた記録があるわけではなく、「四十八」も「百」も実際の数ではなく「数多くある」ことを誇張して示す表現だと考えられている。江戸の町の数を大げさに「八百八町」と呼んだのと同じ発想で、具体的な数字そのものより「これほど多い」という感覚を伝えることに主眼が置かれた言葉なのだろう。この言葉がいつ頃から使われ始めたのか、最初に誰が言い出したのかまではっきりした記録は見当たらないが、江戸中期以降の色文化を象徴する表現として、今も染織や着物の解説で頻繁に引用されている。
寛永5年からの禁令 ― 目立つ色を著しく制限した江戸幕府
この地味な色合いが広まった背景には、江戸幕府が繰り返し発した奢侈禁止令(倹約令)がある。Wikipediaの奢侈禁止令の項目によれば、寛永5年(1628年)頃から身分ごとに衣服の素材や色を制限する取り締まりが本格化し、農民は布や木綿に、下級武士でも紬や絹止まりとされ、華美な装飾は禁じられたという。さらに寛永19年(1642年)には農民の襟や帯に絹を使うことが禁じられ、紫色や紅梅色の使用も制限された。天和3年(1683年)になると町人は絹以下、下女や端女は布か木綿の着用を命じられ、呉服屋が金紗や刺繍、絞りを施した小袖を販売すること自体が禁じられている。派手な色柄や上質な生地を、身分に関わらず誰もが自由に選べる時代ではなかったわけである。半世紀余りのあいだに同様の禁令が繰り返し出されているという事実そのものが、庶民のあいだでおしゃれを楽しもうとする動きがそれだけしぶとく、幕府の統制がなかなか徹底しきれなかったことを物語っているとも言えるだろう。
規制の中で見出した「粋」という価値観
面白いのは、こうした締め付けが庶民の色彩感覚をむしろ洗練させる方向に働いたことだ。紫や紅、金糸といった目立つ色や装飾を封じられた庶民は、幕府が黙認していた茶・鼠・藍系統の地味な色の中で、いかに微妙な違いを楽しむかという方向に工夫を凝らすようになった。江戸初期から中期にかけては茶色系の流行が先行し、茶の中にも江戸茶や利休茶など無数のバリエーションが生まれたが、江戸中期を過ぎる頃には人気の中心が茶色から鼠色へと移っていったとされる。Wikipediaの鼠色の項目にも、地味な色の中に品位や洒落味を見出す美意識がこの時期に育っていったことが記されている。禁じられた色を諦めるのではなく、許された色の解像度を極限まで上げていく――そうした発想の転換こそが、四十八茶百鼠という言葉が今に伝える江戸っ子気質の核心なのだろう。限られた選択肢の中でどれだけ差異を楽しめるかという態度は、後の世代が「粋」や「通」と呼ぶようになる江戸独特の美意識にもつながっていったと考えられている。
役者の名がついた色 ― 路考茶と団十郎茶
地味な色に個性を与えたもう一つの原動力が、歌舞伎役者の存在だった。宝暦から安永にかけて活躍した二代目瀬川菊之丞は、屋号にちなむ俳名「路考」で絶大な人気を誇り、Wikipediaの瀬川菊之丞(2代目)の項目によれば、彼の名を冠した「路考髷」「路考茶」「路考櫛」といった髪型や色、小物が庶民のあいだで次々と流行したという。同じように、市川團十郎家には代々「柿色」と呼ばれる灰みがかった黄赤が伝わっており、Wikipediaの柿色の項目によれば、五代目市川團十郎が荒事の演目「暫」でこの柿色の素襖をまとって以来、「団十郎茶」とも呼ばれるようになったとされる。この色は今も歌舞伎座の定式幕に使われる三色の一つに数えられている。人気役者が舞台でまとった色を庶民が真似て広まっていくという構図は、現代のファッションにおける著名人発の流行とよく似ており、地味な色の中にも当時の熱狂が刻まれていたことがうかがえる。
消炭鼠から白鼠へ ― 混色でさらに広がる名前のバリエーション
鼠色ひとつを取っても、その内側にはさらに細かい段階と系統が存在する。Wikipediaの鼠色の項目には、最も濃い「消炭鼠」から最も淡い「白鼠」まで、濃淡だけで何段階もの呼び名が並んでいたことが記されている。それだけでなく、鼠色に別の色を混ぜて生まれた名前も数多い。桜色を帯びた「桜鼠」、牡丹の色みを含む「牡丹鼠」、柳の葉を思わせる「柳鼠」、藤の花に通じる「藤鼠」、鳩の羽色に例えた「鳩羽鼠」、藍を含んだ「藍鼠」や「深川鼠」など、花や鳥、情景から着想を得た名前が次々と生み出された。同じ「鼠」の字がついていても、赤みを帯びるか青みを帯びるかで受ける印象はまるで違い、それぞれに固有の名前を与えることで、着る人と見る人のあいだにごく細やかな色の共通言語が育っていったことになる。冒頭で触れた「結局どれも茶色としか言えない」感覚は、裏を返せば、当時の人々がそれだけ細かい色の違いを見分け、名付け、日々の装いの中で使い分けていたことの証でもある。単色に見える地味な色の奥に、これほど豊かな語彙が積み重ねられていたと知ると、見え方も変わってくるのではないだろうか。
制約から生まれた色彩感覚は、今の着物選びにも息づく
贅沢を禁じる法令という、いわば逆風から生まれた四十八茶百鼠の文化は、結果として日本の色彩感覚を大きく豊かにした。禁じられた色を嘆くのではなく、許された範囲の中で際限なく違いを楽しもうとした江戸の庶民の発想は、現代の私たちが渋い色合いの着物を選ぶときの感覚にも、どこかでつながっているように思える。次に茶色や鼠色の着物を目にしたときは、その色に路考茶や団十郎茶のような固有の名前がついていないか、あるいはどんな色を混ぜてその色みが生まれているのか、少し目を凝らしてみるのも面白いかもしれない。こうした背景を知ってから箪笥の中の一枚を見返すと、地味だと思っていた色にも当時の職人や庶民の工夫が透けて見えてくるはずだ。もし着る機会が見込めずに手放すかどうか迷っている着物があれば、着物買取という選択肢に目を向けてみるのも一つの手だろう。