大島紬や結城紬は、着物にくわしくない人でも名前くらいは聞いたことがあるほど名高い高級織物である。ところがこの二つは、どれほど手の込んだ一枚であっても格の高い場には着ていけない。一方で、一見すると地味な江戸小紋や真っ白に近い色無地は、一つ紋を添えるだけで略礼装として通用する。値段の高さと格の高さが必ずしも一致しないというこのねじれは、着物が「織り」から生まれたか「染め」から生まれたかという、生地の作られ方の違いに根ざしている。技法の違いをたどっていくと、着物の格を決めている本当の基準が見えてくる。

織りと染め、格差の起点は「糸から染めるか、生地から染めるか」

着物の生地は、大きく分けて「先染め」と「後染め」という二つの作られ方をたどってきた。先染めは糸の段階であらかじめ染めてから機にかけて織り上げる方法で、紬や御召、絣などがこれにあたる。糸を染めてから織るため、柄をどう出すかは糸を織り込む位置で決まり、複雑な模様を出そうとするほど糸を合わせる手間が増えていく。これに対して後染めは、まず白生地のまま反物を織り上げ、そのあとで模様や色を筆や型で挿していく方法で、友禅染めや江戸小紋、絞り染めなどが代表例にあたる。白生地を先に用意してしまうため、後からどんな模様でも自由に描けるという柔軟さがある一方、絵師や職人の技量に染めの出来がそのまま左右される。この「糸から手間をかけるか、生地から手間をかけるか」という工程の違いこそが、織りと染めそれぞれの着物の性格を決定づけ、のちの格の違いにもつながっていく。

紬が普段着とされてきた理由――大島紬と結城紬にみる先染めの手間

先染めの代表格である紬は、生糸にならない屑繭や真綿を使い、農家などが自家用に織っていたことに由来する織物である。大島紬は奄美大島で古くから作られてきたとされ、享保5年(1720年)には薩摩藩が島役人以外の紬の着用を禁じたという記録が残るほど、藩の重要な財源になっていた。泥田に含まれる鉄分と、テーチ木というシャリンバイの木から取れるタンニンを化学反応させて糸を染める泥染めは、大きな釜で20時間以上煮出した染液に糸をもみ込む工程を何十回も繰り返す気の遠くなる作業で、絣模様も図案に合わせて糸を一本ずつ木綿糸でくくる「締機」という工程を経てようやく織り上がる。茨城県結城市周辺で作られる結城紬も、真綿から手で糸をつむぎ、経糸を腰で吊って張り具合を調整する「地機」という古い形の織機で織られ、1956年に重要無形文化財に指定されている。どちらも実用着として生まれた織物である以上、いくら技術的な価値が高くても、白生地に模様を描き込む後染めの礼装文化とは別の系譜に属し続けてきた。

贅沢を禁じられても紬だけは許された、江戸時代の事情

紬は江戸時代の奢侈禁止令のなかでも独特の位置づけを与えられていた織物だった。寛永5年(1628年)に幕府が出した規制では、農民の衣服は布・木綿に制限されたが、名主や農民の妻に限っては紬の着用が認められていたという記録が残る。奢侈禁止令は身分ごとに絹の使用を厳しく制限する一方で、屑繭から作られる紬は絹でありながら規制の網からしばしば外れる存在だった。この扱いの緩さが、経済力を持ち始めた庶民や町人のあいだで上質な紬に手間と工夫を凝らす動機になり、大島紬や結城紬のような精緻な織物文化が育つ土壌のひとつになったとも考えられている。もっとも紬が規制の枠から外れていたのは、あくまで実用着・普段着という位置づけがあったからにほかならない。この出自が、現在まで「紬は準礼装にも及ばない」という格の低さとして受け継がれている。

御召はなぜ「先染めなのに別格」と呼ばれるのか

先染めの着物のなかでも例外的な位置にあるのが御召である。御召は経糸に「八丁撚り」と呼ばれる強い撚りをかけた糸を用いる縮緬の一種で、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉が好んで着用したことから「御召料」、転じて「御召」という名がついたと伝わる。将軍自らが愛用した織物という由緒に加えて、強撚糸を織り込むことで生まれる独特のシボと、染めの着物に劣らない光沢や意匠の凝りようから、御召は数ある先染めの着物のなかで数少ない、色無地や江戸小紋に準じる略礼装として扱われるようになった。新潟県の塩沢御召は1976年に国の伝統的工芸品に指定されており、現在も茶席や観劇など準礼装が求められる場で着られている。同じ先染めでありながら紬とは異なる格を得た御召の存在は、格を分けているのが糸を染めるか生地を染めるかという技法だけではなく、その技法にどれほどの由緒と技術の積み重ねが伴っているかという要素も大きいことを物語っている。

なぜ友禅染めは後染めの中で礼装の主役になれたのか

後染めを代表する友禅染めは、白生地を先に仕立てられる形まで織り上げてから、そこに絵師さながらの筆致で模様を挿していく技法である。名称は元禄期(1688〜1704年)ごろに京都で活躍し、扇に描いた意匠が「友禅扇」として評判を呼んだ宮崎友禅斎に由来するとされるが、友禅斎自身が糊で防染して多彩な色を挿す現在の友禅染めの技法そのものを完成させたかどうかは確たる史料が乏しく、関与を疑う説もある。ただし名称の由来はともかく、白生地の状態からどこにでも自由に模様を描けるという後染めの特性が、四季の草花や物語の一場面をひとつづきの絵のように着物全体へ表現することを可能にし、絵師や染め職人の技量が問われる贅沢な染色文化として京都を中心に発展していったことは間違いない。柄を自在に配置できる自由度の高さこそが、友禅染めや江戸小紋のような後染めの着物が訪問着や留袖など礼装の主役であり続けている理由になっている。

紬・御召・友禅染め――格の違いは技法の歴史がつくった

織りの着物と染めの着物を分けているのは、生地の見た目の華やかさではなく、糸の段階で手間をかけたか、白生地になってから手間をかけたかという工程の違いであり、そこに紬や御召、友禅染めそれぞれが背負ってきた歴史が重なって、現在の格が形づくられている。実用着として育った紬、将軍の愛用品という由緒を得た御召、白生地の自由さを武器に礼装の主役となった友禅染め――こうした背景を知ってから手持ちの一枚をあらためて眺めてみると、値段や柄の派手さだけでは測れなかった価値に気づくこともあるはずだ。保管したまま出番のない一枚があるなら、傷む前に着物買取という窓口を使って次に袖を通す人へ託すのも一つの手だろう。