帯の上できゅっと結ばれた帯締めと、その脇からのぞく帯揚げの色合わせ――この二つの小物は、着物のコーディネートにおいて「差し色」の役割で語られることが多い。ところが実際にこの二つが着物の装いに登場したのは江戸時代の後期から明治にかけてのことで、小袖や帯そのものの歴史に比べればずいぶん新参者にあたる。しかも成り立ちをたどると、ある歌舞伎役者の着崩れ対策や、深川の芸者が編み出した帯結びの工夫といった、驚くほど具体的な人物や事情に行き着く。帯締め・帯揚げがどのようにして今の形になり、なぜそこに格の違いが生まれたのかを、記録に残る経緯から追ってみたい。

帯締めのルーツは、歌舞伎役者の着崩れ対策だった

Wikipediaの帯締めの項目によれば、帯締めの始まりは江戸時代の文化年間(1804〜1818年)にさかのぼるとされる。当時人気を集めていた歌舞伎役者が、舞台の上で衣裳が着崩れるのを防ぐために帯の上からもう一本紐を締めたのがルーツだという。この逸話がどこまで史実として裏付けられるかは資料によって幅があり、後世に広まった俗説的な色合いも含まれている可能性はあるが、江戸の流行の多くが芝居小屋から町へ広がっていったという当時の文化構造を思えば、十分にありそうな成り立ちではある。実用のために足された一本の紐が、便利さゆえに庶民の装いにも定着し、やがて帯結びに欠かせない小物へと育っていった。今では色や素材選びにばかり注目が集まる帯締めだが、そのスタートラインは見た目の装飾ではなく、あくまで着崩れを防ぐという実用の一点にあった。

廃刀令がもたらした転換 ― 刀の下緒から帯締めへ

帯締めが今のような組紐で作られるようになった背景には、武士の帯刀文化の終わりが関わっている。明治9年(1876年)に発令された廃刀令によって、帯刀は一部の例外を除いて禁じられた。それまで刀の鞘に取り付けられ、腰に固定するために使われていた「下緒」には、丸台・角台・高台といった組台を使って手間をかけて組み上げた組紐が用いられていたが、刀そのものを差せなくなったことで、この下緒用の組紐は行き場を失うことになる。この技術と職人がそのまま帯締めづくりに流れ込み、以後は組紐で作られた帯締めが主流になっていったというのが実際の経緯だ。武具として鍛えられてきた組み方の技術や格式が、そのまま帯周りの小物に持ち込まれたことで、帯締めには単なる紐にとどまらない緻密さと格の序列が備わることになった。同項目でも、組紐は「丸打ち(丸組)」「角打ち(角組)」「平打ち(平組)」の三種に分類され、太いものほど、また金糸・銀糸を使ったものほど格が高いとされると説明されている。

帯揚げは、ひとりの芸者の工夫から生まれた

帯揚げの登場はさらに時代が下って江戸時代末期のことだ。Wikipediaの帯揚げの項目によれば、深川の芸者が帯を立体的に見せる「太鼓結び」を考え出した際、帯の形を保つための帯枕もあわせて考案されたという。帯揚げは、この帯枕を体に固定するための紐を隠し、重くなった帯全体を支えるために発明されたのではないかと考えられている。錦絵などの記録から見て、この帯揚げが庶民の間にも広く使われるようになったのは明治10年頃とされ、さらに商品として店頭に並ぶようになったのは明治40年頃のことだったようだ。当時の三越や白木屋といった百貨店の新聞広告には、帯揚げ一本につきおよそ1円50銭という価格が記されており、太鼓結びという帯結びの流行から帯揚げが独立した商品として定着するまでに、数十年単位の時間がかかったことがうかがえる。今では帯締めとセットで語られることの多い帯揚げだが、実際には帯枕という別の発明品を支えるための、いわば「裏方の裏方」として生まれた小物だった。

平組・丸組・角組 ― 組み方の違いが格を語る仕組み

帯締めの格を決めているのは、色柄の華やかさよりもむしろ組み方そのものの構造だ。断面が平たい平組、丸い丸組、四角い角組という三つの基本形があり、このうち最も格が高いとされるのは平組になる。平たく組むには糸を多方向から均等に交差させる必要があり、丸組や角組に比べて手間と技術がかかることに加え、帯の表面に接する面積が広いぶん、金糸・銀糸を織り込んだときの見栄えも良い。太めに組まれたものや金銀糸を使ったものほど格が高いとされるのは、単なる好みの問題ではなく、素材の量と手間のかかり方がそのまま格に反映される仕組みだからだ。京都府の伝統的工芸品としての組紐を紹介する京都府公式サイトの解説では、丸台・角台・綾竹台・高台などの道具を使い分けることで、基本の組み方だけでも40種類以上が存在すると説明されている。留袖や振袖には白地に金銀をあしらった格の高い平組を、小紋や紬のような普段着には三分紐や丸組・角組を、というように着物の格に応じて組み方から選び分ける習慣は、こうした技術的な裏付けのうえに成り立っている。

伊賀と京都、二大産地はどう育ってきたのか

現在、帯締めや帯揚げに使われる組紐の産地として名高いのが三重県の伊賀と京都だ。三重県の公式サイトによれば、伊賀くみひもの紹介ページには、その起源が奈良時代以前にさかのぼるとされ、当初は経巻や仏具・神具を飾る紐として用いられていたとある。産業として本格的に発展したのは明治時代中期以降のことで、昭和51年(1976年)には経済産業大臣指定の伝統的工芸品に指定された。特に高台という組台を使った手組み紐は全国生産の大半を占めるとされ、量と質を両立させてきた産地であることがわかる。一方の京くみひもは、縄文時代にすでに存在していた簡素な紐文化を土台に、飛鳥・奈良時代に中国や朝鮮半島から高度な技術が伝わったことで工芸品としての質を高めていった。平安・鎌倉時代には意匠が優美な方向へ洗練され、室町時代には茶道文化のわび・さびの美意識を吸収し、桃山・江戸時代には庶民の羽織紐や組帯にまで用途が広がったとされる。同じ組紐でも、伊賀が実用と量産の系譜を歩んできたのに対し、京都は公家文化や茶道文化と結びつきながら意匠の多様性を磨いてきたという違いは、今の帯締め選びにもそのまま反映されている。

色使いの作法と、次の世代への引き継ぎ方

格の違いに加えて、帯締め・帯揚げには慶弔による色の使い分けという作法もある。白や淡い色を基調にした平組・総絞りは慶事向き、黒でまとめたものは弔事向きとされ、振袖には赤や朱、金銀をふんだんに使った華やかな総絞りの帯揚げが選ばれることが多い。これは単なる好みではなく、婚礼や葬儀といった人生儀礼の場で装いの意味を誤らないための、ごく実用的なルールでもある。一本の紐、一枚の布にすぎない帯締め・帯揚げが、歌舞伎役者の思いつきや芸者の工夫、廃刀令という社会制度の転換といった具体的な出来事を経て今の形にたどり着いたことを知ると、次にこれらを手に取るときの見方も少し変わってくるのではないだろうか。もし使うあてのないまま眠っている帯締めや帯揚げ、それに合わせていた着物一式があるなら、無理に手元に置き続けるのではなく、着物買取という形でまとめて次の持ち主へ橋渡しする道も検討してみたい。