色あせていくのが染め物の宿命のはずなのに、藍染めだけは着込むほどに色が深まっていくと語られることがある。藍瓶に浸けた直後の生地は緑がかった黄色をしていて、空気に触れて初めて青く発色する。この「生きた色」と呼ばれる不思議な発色のしくみと、徳島の阿波藍が「本藍」として全国市場を制するまでの歴史、そして藍色が海を渡って「ジャパン・ブルー」と呼ばれるようになった経緯を、史実に沿ってたどってみたい。
藍染めの色は、なぜ「生きた色」と呼ばれるのか
紅花や茜など多くの天然染料は、染料そのものが水に溶けるため、生地を浸せばそのまま色が入る。ところが藍の色素であるインジゴは、酸化した状態では水にまったく溶けない。そこで藍染めでは、すくもを灰汁(木灰を溶かした上澄み液)や石灰、ふすま・日本酒などの栄養源とともに甕に仕込み、微生物の力を借りて発酵させることで色素をいったん還元し、水に溶ける状態に変化させる。これを「藍建て」と呼ぶ。この液に生地を浸けてゆっくり引き上げると、最初は黄緑がかった色をしているが、空気に触れた瞬間から酸化が始まり、見る間に青く発色していく。一度の浸け染めで仕上げることはほとんどなく、浸けては空気にさらして発色させる作業を何度も繰り返すことで、浅葱色から藍色、漆黒に近い留紺まで、驚くほど幅広い青の階調をつくり出せる。液の中で微生物が生き続けている限り染め続けられることも、藍染めが「生きた色」と呼ばれるゆえんのひとつになっている。浸ける回数が少ない順に浅葱、縹、藍、そして紺や褐(かちん)と呼び名が変わっていくように、日本人は古くから藍の濃淡を細かく呼び分け、色そのものを暮らしの中で楽しんできた。
すくもができるまで――藍師が一年をかけて葉を発酵させる仕事
藍染めの染料であるすくもは、タデ科の一年草である蓼藍から作られる。徳島県の資料によれば、春に苗を植え、夏に葉を刈り取って収穫したのち、葉を乾燥させてから専用の寝床に積み込み、およそ100日にわたって何度も水を打ちながら攪拌と発酵を繰り返す工程を経て、ようやくすくもが完成するという。植え付けから完成までにほぼ一年を要する、気の長い手仕事である。徳島の作付面積は明治36年(1903年)に最盛期を迎え、およそ15,000ヘクタールに達したと同資料は伝えており、当時の徳島がいかに藍一色の産地であったかがうかがえる。すくも作りは化学的な精製ではなく発酵という生き物の営みに委ねられているため、その年の気候や葉の出来によって仕上がりが変わる点も、藍染めが工業製品にはない表情を持つ理由になっている。
阿波藍は、なぜ「本藍」と呼ばれ全国を制したのか
阿波(現在の徳島県)で藍染めが行われていた記録は、戦国時代末に阿波を治めていた三好氏の時代までさかのぼるとされる。だが藍を地域の産業として組織立てて育てたのは、1585年に豊臣秀吉から阿波を与えられて入部した蜂須賀家政以降のことだった。Wikipediaの阿波藍の項目によれば、家政は1615年に播磨から藍作の技術者を招き、1625年には藍の生産と品質を監督する藍方役所を設置したという。江戸時代に入ると、大坂周辺で木綿の栽培が広がって藍需要が急増したことに加え、犬伏久助という人物による加工技術の改良によって、阿波産の藍は「本藍」の名で高い評価を得るようになり、1700年代には全国市場を実質的に支配するまでになったと同項目は伝えている。徳島藩が保護・奨励した産業政策と、木綿という新しい需要地の拡大が重なったことが、阿波藍を全国区の特産品に押し上げた背景にある。木綿地は絹に比べて安価で丈夫な庶民の衣料として江戸時代に急速に広まったが、その木綿を美しく、かつ何度洗っても色落ちしにくく染め上げられる染料として藍が選ばれたことも、需要拡大を後押しした一因とされる。
衰退してなお、5軒の藍師が藍を作り続ける理由
明治後期に入ると、安価なインド藍の輸入や、ドイツで開発された合成インジゴの普及によって、国産の藍生産は急速に衰えていった。最盛期に15,000ヘクタールあった徳島の作付面積は、現在では10ヘクタールから20ヘクタール程度にまで縮小し、すくもを作る藍師と呼ばれる生産者もわずか5軒ほどが残るのみだという。それでも阿波藍製造の技術は、文化庁の日本遺産ポータルサイトによれば1978年(昭和53年)に国の選定保存技術に認定されており、産業としての規模は縮小しても、後世に伝えるべき技術としての位置づけを国から与えられている。藍師の仕事が失われずに続いているのは、単なる懐古趣味からではなく、化学合成では再現しきれない発酵由来の色と、それを支えてきた技術そのものに価値が認められているからだといえる。藍染めの生地には防虫や抗菌に役立つ働きがあるとも言われ、農作業用の野良着や、今も剣道の道着・袴の多くが藍で染められ続けているのは、見た目の美しさだけでなく、こうした実用面での評価も背景にあると考えられている。
藍色は、なぜ「ジャパン・ブルー」と呼ばれるようになったのか
明治期に来日したイギリス人化学者ロバート・ウィリアム・アトキンソンは、1874年から1878年、そして1879年から1881年の二度にわたって日本に滞在し、東京大学の前身にあたる東京開成学校などで分析化学や応用化学を教えた人物である。Wikipediaの同氏の項目によれば、アトキンソンは日本酒の醸造技術を研究し、欧米の低温殺菌法にあたる「火入れ」の仕組みを科学的に解明した人物としても知られるが、染料の研究にも取り組むなかで、日本人の衣服に藍染めが驚くほど多く使われていることに着目し、その青を「ジャパン・ブルー」と呼んだと伝えられている。街を行き交う人々の多くが藍色の着物や仕事着をまとっていた当時の光景は、来日した外国人の目に、日本という国そのものを象徴する色として映ったのだろう。
四百年の歴史を吸い込んだ藍色を、次の世代へ
すくもという発酵の手仕事、蜂須賀家政の藍方役所に始まる産業としての歩み、そして海を越えて「ジャパン・ブルー」と呼ばれるに至った偶然。一枚の藍染めの着物や帯には、これだけの歴史と技術の層が積み重なっている。祖母や母から受け継いだ着物の中に藍染めのものがあれば、色の濃淡や柄の奥に、発酵と酸化がつくり出した物語が刻まれていると思って眺めてみてほしい。もし着る機会が見込めないままタンスにしまわれているなら、着物買取という選択肢も、その一枚が背負ってきた歴史を次の持ち主へつなぐひとつの方法になる。