友人の結婚式や写真館のポスターで、真っ白な白無垢と、鮮やかな色打掛、裾を引きずるように仕立てられた振袖姿とを見比べたことがある人は多いはずだ。なんとなく格の違いや歴史の古さを想像してしまうものの、実際に由来を調べてみると、この三つの装いが今の形に落ち着くまでには、思っている以上に入り組んだ経緯があった。室町時代の武家儀礼から明治の皇室の婚儀まで、花嫁衣装の成り立ちを一つずつたどってみたい。

打掛は室町時代の武家が「家督継承の儀式」として整えた装いだった

打掛とは、小袖の上にもう一枚、袖を通さずに羽織り重ねる着方を指す言葉で、古くは「掻取」とも呼ばれた。武家にとって婚礼は家督継承にかかわる重要な儀式であり、打掛の歴史をまとめた資料によれば、室町時代にはすでに白い打掛を小袖の上に重ねる装いが婚礼の正式な様式として整えられていたとされる。この格式の高さを裏づける逸話として、文明11年(1479年)に後土御門天皇が室町幕府八代将軍・足利義政の正妻である日野富子に対し、打掛の着用を特別に許す勅を発したという記録が伝わっている。天皇が個別に許可を与えなければならないほど、打掛は誰もが自由にまとえるものではなかったわけだ。江戸時代に入ると上層武家の花嫁は白地に銀箔や縫箔を施した打掛を、大名家の姫君は緋色の袴の上に打掛を重ねるという、身分に応じた細かな様式へと整理されていく。この白打掛と小袖を重ねる武家の婚礼装束こそが、今日の白無垢の直接の原型になっている。

白無垢の「白」は、もともと祝いだけの色ではなかった

白無垢と聞くと、清らかさや祝福の象徴という説明を思い浮かべやすい。けれど実際に白という色が担ってきた役割は、もう少し広い。Wikipedia日本語版の白無垢の項目によれば、室町末期から江戸時代にかけて白無垢は花嫁衣装だけでなく、出産の際の衣、葬礼で使う経帷子、さらには切腹の際にまとう装束としても用いられていたという。つまり白は「祝いの色」である以前に、人生の大きな節目や、穢れを断ち切る場面全般で使われる神聖な色だったことになる。この位置づけが変わる転機になったのが明治時代だ。西洋式の慣行が取り入れられるにつれて葬礼で用いる色が黒へと移り変わり、白は結婚式、とりわけ神前式で花嫁がまとう婚礼衣装と、式服の下に着る下着としての用途にほぼ限定されていった。今わたしたちが白無垢を「特別に祝いの装い」と感じているのは、実は明治以降に色の使い分けが整理された結果でもある。

「三三九度」も「神前式」も、実は明治にできたばかりの新しい様式だった

白無垢に三三九度、神殿での誓いというイメージから、神前結婚式は太古から続く伝統だと思い込みやすいが、これは案外新しい様式である。江戸時代の庶民の結婚は、多くの場合「祝言」と呼ばれる形で行われていた。Wikipedia日本語版の結婚式の項目によれば、新郎の自宅に親族が集まり、床の間に高砂の尉と姥を描いた掛け軸を掛け、鶴亀をあしらった島台を置いて盃を交わすという、神社とは無縁の儀礼だったという。この形が大きく転換したのは明治33年(1900年)5月10日、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と九条節子妃が宮中三殿で結婚の儀を執り行ったことがきっかけだった。この皇室の儀式にならう形を望む声が広がり、翌明治34年(1901年)3月3日、東京大神宮の前身にあたる神宮奉斎会が民間向けの神前結婚式の様式を定め、模擬結婚式を開催した。そして1902年には、米国帰りの歯科医師と仙台の商家出身の女性の結婚式が日比谷大神宮で執り行われ、これが民間における神前式第一号とされている。今日「昔ながらの和婚」として親しまれている神前式は、120年あまり前に皇室の儀式を手本として作られた、比較的新しい様式だったということになる。

色打掛は、「お色直し」の場で先に定着した装いだった

色打掛は構造そのものは白無垢と変わらず、小袖の上に打掛を重ねるという武家婚礼の様式を受け継いでいる。違うのは色柄で、白一色ではなく赤や黒の地に吉祥文様や花鳥を織り込んだ華やかな打掛を指す。江戸時代の上層武家では白打掛が正式な婚礼装束とされる一方、その後に着替える装いとして赤地や黒地の打掛が用いられるようになり、江戸後期から明治期にかけては赤の振袖、黒の振袖あるいは打掛という三領を重ねてお色直しをする「三重ね」と呼ばれる様式も見られるようになった。つまり色打掛は最初から独立した婚礼衣装として生まれたわけではなく、白無垢という「本式」の装いのあとに続く、お色直しの場面で発達してきた装いという性格が強い。現代の結婚式で白無垢から色打掛へ、あるいは色打掛から洋装へとお色直しをする流れは、こうした江戸後期の重ね着の様式が形を変えて続いているものと見ることができる。

引き振袖は、未婚のしるしをまとって嫁ぐという逆説を抱えている

振袖はもともと、袖を体に縫い留めない若い世代特有の仕立てだった。元禄8年(1695年)に刊行された井原西鶴の『西鶴俗つれづれ』には、Wikipedia日本語版の振袖の項目が引用するところによれば、男子は17歳の春、女子は19歳の秋になると袖を短く仕立て直し、脇を縫いふさぐという当時の慣習が記されている。つまり長い袖は、成人前の若い未婚の男女であることを周囲に示す記号として機能していたわけだ。この振袖を花嫁がまとう「引き振袖」は、江戸時代にはすでに武家の女子の婚礼装束として使われており、江戸後期になると裕福な商人や農家の間で赤地や黒地に五つ紋を入れた振袖が流行し、明治から昭和初期にかけては富裕な商家の花嫁衣装として広く定着していった。太平洋戦争の前後からは黒地の引き振袖が主流になっていく。裾を引きずるように仕立てられているのは、動きやすさよりも格式と華やかさを優先した結果であり、本来は未婚のしるしだった振袖を、結婚という人生の節目でまとって嫁いでいくという構図には、ちょっとした逆説が潜んでいる。

綿帽子は白無垢だけ、角隠しは色打掛にも合わせられる理由

白無垢に添える綿帽子と、色打掛にも合わせられる角隠しは、同じ「花嫁の頭を覆うもの」でありながら由来も役割も異なる。綿帽子はもともと真綿を加工して広げた実用的な防寒具で、鎌倉時代以前から高貴な女性が外出時に頭を覆っていた「被衣」の系譜を引くとされる。江戸時代になると若い女性の間に真綿製の帽子が広まり、18世紀半ば以降は実用の防寒具としてよりも、もっぱら儀礼用としてのみ用いられるようになった。現在の綿帽子は白絹を袷仕立てにしたもので、挙式の間だけ着用し、披露宴では外すのが習わしとされ、合わせられるのも白無垢に限られる。一方の角隠しは、江戸時代後期から明治初期にかけて広まった風習で、室町時代の物売り女性の頭巾に由来する説、寺参りの際に女性が髪の生え際を隠した「すみかくし」に由来する説、歌舞伎役者の姿を女性がまねたとする説など、いくつもの説が伝わるだけで由来ははっきりしない。ただ綿帽子とは違って色打掛にも合わせられるため、現在の結婚式ではより幅広い場面で見かける被り物になっている。

花嫁衣装は「守られてきた伝統」より「重ねられてきた歴史」に近い

こうして一つずつたどってみると、白無垢・色打掛・引き振袖はどれも、ある時代に一気に完成した「昔ながらの伝統」というより、室町の武家儀礼、江戸のお色直しの習慣、明治の皇室婚儀という異なる時代の出来事が積み重なって今の形になったものだとわかる。神前式という舞台立てそのものが120年あまり前の様式であることを知ると、そこにまとわれる衣装の一つひとつも、決まりきった古典というより、時代ごとに更新され続けてきた装いとして見えてくるはずだ。祖母や母が誂えた白無垢や振袖が、袖を通す機会のないまま実家のたんすに残っているなら、状態を確かめたうえで着物買取に託し、次の花嫁の晴れの日へとつないでいくのも、この重層的な歴史に連なる選択肢の一つといえるだろう。