着物は千年変わらない伝統の形だと思われがちだが、実は今のようなたっぷりとした袖幅のシルエットが定着したのは江戸時代も半ばを過ぎてからで、その前身をたどれば貴族の下着に行き着く時期すらある。平安貴族の正装だった十二単、その内側で着られていた小袖という下着、そしてある将軍家の女性の好みが生んだ大きな転換点――今の着物の形にたどり着くまでの道のりを、史料に残る記録とともに追ってみたい。
十二単は「今の着物」の直接の祖先ではない
着物のルーツと聞いてまず思い浮かぶのは、平安貴族の女性がまとった十二単かもしれない。だが十二単は今のきものとは構造がまったく異なる、何枚もの衣を重ねる正装の総称で、当時の宮中では「女房装束」や「裳唐衣」と呼ばれていた。「十二単」という呼び名自体は俗称で、Wikipediaの解説によれば、軍記物語『源平盛衰記』にある「藤がさねの十二単の御衣を召され」という一節が、後の世に意味を取り違えられて広まったものとされている。構成は唐衣・裳・表着・打衣・袿を重ね、その下に単の肌着と長袴を着けるというもので、枚数に決まりはなく、平安時代には20枚以上重ねた女房もいたという。あまりの重さに歩けなくなったという記録も残るほどで、実際の総重量はおよそ20キログラムに達したとされる。平安時代末期になってようやく5枚程度に落ち着き、室町時代には正式に5枚と定められ「五衣」と呼ばれるようになった。つまり十二単は、今の着物へ直線的につながる祖先というより、公家社会という限られた場で発達した特殊な正装だったと見るほうが実情に近い。
十二単の内側で育っていた「小袖」という下着
今の着物に直接つながる存在は、十二単の内側に着けられていた「小袖」という肌着にある。Wikipediaの記述によれば、小袖という名前は、貴族が着た大袖の装束に対して袖口が小さく仕立てられていたことに由来する。その歴史は平安時代よりもさらに遡り、奈良時代にはすでに存在していたことが正倉院の御物からも確認できる。平安時代の小袖は二つの顔を持っていた。宮中の女性にとっては十二単の下に着る肌着だったが、庶民にとっては日常そのままの表着だったのだ。現存する最古の実物とされるのは、平泉の中尊寺に伝わる、奥州藤原氏二代・藤原基衡が着用したと伝わる一領で、当時の染織技術を知る貴重な手がかりになっている。貴族社会では「格の低い下着」として扱われていたこの衣が、後の時代に着物の主役へと躍り出ることになる。
鎌倉・室町時代、下着だった小袖が表着に格上げされる
小袖が下着から表着へと立場を変えていく転機は、鎌倉時代から室町時代にかけて訪れた。鎌倉時代には庶民の間で色染めを施した「染小袖」が流行し、実用一辺倒だった小袖に装飾性が加わり始める。同時に公家社会の正装だった女房装束(十二単)の側にも変化が起きていた。京都宮廷文化研究所の解説によれば、鎌倉中期以降は刺繍を施した豪華な肌小袖の重ね着が流行し、表側の袿は実質的な衣というより礼装を構成する道具のような存在になっていった。生活様式が椅子座から床に座る暮らしへと移っていったことも、身動きの取りにくい重ね着の正装が簡略化されていく一因になったとされる。やがて宮中の正装は「薄衣や二衣に唐衣を着けただけ」という簡素な姿が一般化し、応仁の乱の混乱で一時は途絶えたのち、1485年に儀礼として復興される。一方の小袖は室町時代中期以降、男女を問わず表着として着られるのが一般的になった。下着だった一枚の衣が、時代の変化のなかで主役の座を得ていった過程がここにある。
江戸時代、小袖の柄と技法が一気に花開く
表着としての地位を得た小袖は、江戸時代に入ると装飾芸術としての側面を大きく開花させていく。安土桃山時代に流行した「桃山小袖」は、襟や裾に華やかな模様を集め、胴の中間部分をあえて白く抜く「肩裾小袖」という様式が特徴だった。続く元和・寛永年間(1615年ごろ~1644年ごろ)の「慶長小袖」では、地の色を紅・白・黒・黒茶などで直線や曲線に染め分け、そこに摺箔と刺繍で細かな模様を加える、抽象的で複雑な意匠が好まれるようになる。さらに万治・寛文年間(1658年ごろ~1673年ごろ)の「寛文小袖」になると、右肩を起点として左肩から右裾にかけて図柄を大胆に展開させ、左裾に余白を残す構図が定番となり、絞り染めと刺繍を組み合わせた大柄な模様や、文字そのものを模様として取り入れる遊び心も見られるようになった。元禄年間には友禅染めが誕生したことで、筆で絵を描くように自由な模様と明るい色彩の表現が可能になり、上方の町人文化を発信源として一気に広まっていく。柄の系統や由来については、別稿でも麻の葉や青海波といった文様ごとの意味を取り上げているので、あわせて読むと江戸の柄文化の広がりがより立体的に見えてくるはずだ。
「今の着物の形」を生んだ寛文小袖という転換点
柄や技法の変化以上に見逃せないのが、この時期に起きた「形」そのものの変化だ。慶長小袖までの小袖は、肩幅に対して袖幅が半分ほどしかない、比較的小ぶりな袖で仕立てられていた。ところが寛文小袖が流行した時期になると、現在の和服のように袖幅を大きく仕立てる仕立て方が広まっていく。この流行を後押ししたのが、後水尾天皇の中宮であった徳川和子、のちの東福門院と伝わる。彼女の好みを映した意匠には注文が殺到し、御用達だった京都の呉服商「雁金屋」は大いに繁盛したという記録が残っている。つまりわたしたちが「着物」と聞いて思い浮かべる、ゆったりと余裕のある袖幅のシルエットが定着したのは、平安時代でも室町時代でもなく、17世紀後半の寛文年間のことだったことになる。柄の意匠が時代ごとに移り変わっていくのに対し、この袖幅の変化はその後の着物の基本プロポーションを決定づけたという点で、単なる流行以上の重みを持っている。
千年かけて今の形にたどり着いた一枚、という見方
ここまでの流れを整理すると、平安貴族の重ね着の正装だった十二単、その内側にあった下着としての小袖、鎌倉・室町の表着化、そして江戸の桃山・慶長・寛文・元禄と続く柄と形の洗練という、長い時間をかけた積み重ねの末に今の着物があることが見えてくる。寛文小袖で袖幅のプロポーションが定まって以降、身頃・衽・衿・袖という直線裁ちの基本構造は、細部の変化はあっても大枠としては大きく変わっていない。ちなみに「着物」という言葉自体も、もともとは身に着けるもの全般を指す広い意味の語だったとされ、洋服が広まった明治期以降に和服だけを指す言葉として意味が狭まっていったと考えられている。手元にある着物や譲り受けた着物も、こうした何百年もの変遷を経てたどり着いた一枚だと思うと、簞笥の中で眠らせておくのが少しもったいなく感じられてくる。着る機会が作れないまま残っている着物があれば、着物買取を通じて次に袖を通す人へ引き継ぐという道を検討してみてもいいかもしれない。