着物をクリーニングに出そうとして、店の人から「丸洗いになさいますか、それとも洗い張りになさいますか」と尋ねられ、とっさに違いを説明できなかった、という経験をした人は少なくないだろう。普段着る洋服の感覚で「とにかく洗ってもらえればいい」と思っていると、実は方法によって落とせる汚れも仕上がりもまったく違うと知って戸惑うことになる。ここでは、丸洗い・シミ抜き・洗い張りという三つの方法が何を根拠に使い分けられているのか、そしてシミを長く放置するとなぜ厄介になるのかを、仕組みからたどっていく。
汗も皮脂も「見えないシミ」――放置すると酸化して黄変する仕組み
着物にできるシミには、口紅や食べこぼしのように色や場所がはっきり分かるものだけでなく、着た直後にはほとんど見えない汗や皮脂の汚れもある。この見えない汚れが厄介なのは、時間が経つほど落ちにくくなっていく点だ。Wikipediaの「黄ばみ」の項目によれば、衣類の黄ばみは着用によって付着した皮脂の汚れが酸化することで発生し、酸化は高温多湿の環境ほど速やかに進むという。しかも黄ばみは襟や脇など、皮膚に直接触れたり皮脂の分泌量が多い部位に集中して現れる傾向があり、これは着物の衿や八掛の裏など、まさに汗をかきやすい部分と重なる。つまり「今は汚れていないように見える」着物でも、汗や皮脂がすでに繊維に染み込んでいれば、たんすの中でじわじわと酸化が進み、数か月後、数年後に茶色っぽい変色となって表面化してくることがある。この性質があるからこそ、着用後は早めにクリーニングに出す、あるいは自宅で汗を抜くひと手間が、後年の黄変を防ぐ最初の分かれ道になる。
丸洗いの正体は、着物の形のまま行う「ドライクリーニング」
クリーニング店やきもの店で「丸洗い」と呼ばれているものは、着物を解かずに仕立て上がった状態のまま、有機溶剤を使って洗う技術で、洋服のドライクリーニングと基本的な仕組みは変わらない。Wikipediaの「ドライクリーニング」の項目によれば、ドライクリーニングは水の代わりに石油系溶剤やフッ素系の合成溶剤などの有機溶剤を使い、衣類の型崩れを抑えながら洗う方法で、油分を含んだシミや口紅など、通常の水洗いでは落ちにくい油性の汚れをよく落とせるという特性を持つ。絹は水に濡れると縮んだり風合いが変わったりしやすいため、この「水を使わない」という性質が着物との相性の良さにつながっている。
ただし同じ項目は、水溶性の汚れについて弱点も指摘している。汗や食べ物のはねのような水溶性の汚れは、通常の水洗いに比べて有機溶剤では落ちにくく、丸洗いだけを繰り返していると水溶性の汚れが少しずつ蓄積し、衣類が黄ばんでくることがあるという。つまり丸洗いは、着物を型崩れさせずに油性の汚れを落とすには優れた方法である一方、汗染みそのものを根本から解消する万能の手段ではない。着用のたびに丸洗いだけを繰り返していても、蓄積した汗の成分までは取り切れないことがある、と知っておくと、次に説明するシミ抜きとの使い分けが理解しやすくなる。
シミ抜きは「その汚れ・その生地」に合わせたオーダーメイドの処置
丸洗いが着物全体を洗う工程なのに対し、シミ抜きは特定の汚れ一点に狙いを定めた個別対応になる。東京都クリーニング生活衛生同業組合のコラムでは、洗浄方法を大きく「水(または湯)を使う方法」と「油を原料とした有機溶剤を使う方法」に分け、素材と汚れの性質の組み合わせによって対応が変わると説明されている。水洗いできる生地に水溶性の汚れがついた場合は通常の水洗いで、水洗いできる生地に油性の汚れがついた場合はシミ抜きやドライクリーニングで、逆にドライクリーニング指定の生地に水溶性の汚れがついた場合は、有機溶剤の代わりに専用の技術で水洗いに近い効果を出す「ウェットクリーニング」で対応する、というように、素材と汚れの相性を見極めたうえで手法を選ぶことが基本になる。同コラムは「シミがついたら何もせずすぐにクリーニング店に相談する」ことを鉄則として挙げており、自己流で水を含ませたりこすったりすると、かえってシミが生地の奥に広がり、後から専門店でも取り切れなくなる場合があると注意を促している。正絹の着物は特に自己処理のリスクが高いため、シミに気づいた時点でできるだけ早く、信頼できる専門店に持ち込むことが結果的に一番の近道になる。
洗い張りは、着物を一度反物に戻して丸ごと洗う技法
丸洗いやシミ抜きでも対応しきれないほど汚れが全体に広がっていたり、長年の保管で黄ばみやカビ臭が生地全体に及んでいたりする場合に選ばれるのが「洗い張り」である。これは着物をいったんすべて解いて反物に近い状態に戻したうえで洗い、糊を引いて幅と風合いを整える、和装ならではのクリーニング方法だ。仕立てたまま洗う丸洗いとは異なり、縫い目の内側に隠れていた汚れやカビの胞子まで洗浄できるほか、洗浄後に仕立て直すことを前提としているため、シミの部分をあえて目立たない場所に配置し直す、色があせた部分を裏地側に回すといった調整も同時に行える。手間と時間がかかる分、丸洗いやシミ抜きに比べて費用も高くなりやすいが、着物を長く受け継いでいくための、いわば根本からのメンテナンスと位置づけられる技法だ。振袖や留袖のように生地面積が大きく、次の世代にも譲りたい着物ほど、定期的な洗い張りが検討される理由もここにある。
業者選びの基準 ― 「クリーニング師」という国家資格を知っておく
丸洗いにせよシミ抜きにせよ洗い張りにせよ、実際にどの店に任せるかを決める場面では、価格の安さだけで選ぶと後悔することがある。判断材料の一つになるのが「クリーニング師」という資格の存在だ。Wikipediaの「クリーニング師」の項目によれば、これはクリーニング業法に基づく国家資格で、衛生法規・公衆衛生・洗濯物の処理に関する知識及び技能を問う試験に合格した者に与えられ、染色補正だけを行う店舗を除き、クリーニング店には必ず1名以上のクリーニング師を置くことが法律で義務づけられているという。つまり看板を掲げて営業している店であれば、最低限の技術と法規知識を持つ担当者が在籍していることになる。加えて、正絹や金彩・箔加工のある着物を多く扱った実績があるか、シミの状態を実際に見たうえで工程と料金を事前に説明してくれるかどうかも、見極めの目安になる。返却された衣類にシミが付いていた、思っていた仕上がりと違ったといった相談が消費生活センターに寄せられることもあり、受け取り時にその場で状態を確認し、疑問があればすぐに店側へ伝える習慣が、こうしたトラブルを避ける一番の防御線になる。
汚れの性質を知っておくことが、着物を長持ちさせる一番の近道
丸洗いは着物の形のまま油性の汚れを落とす仕組みで、シミ抜きは汚れと生地の組み合わせに応じた個別対応、洗い張りは着物を反物に戻してまるごと洗う根本的なメンテナンスだ。そしてどの方法を選ぶにしても、汗や皮脂による黄変は放置するほど酸化が進んで落としにくくなるという性質を知っておけば、シミに気づいた瞬間にどう動けばいいかが見えてくる。逆に言えば、長年袖を通さないままたんすにしまわれている着物ほど、こうしたクリーニングの手間や費用が重くのしかかりやすいということでもある。状態が気になる着物や、今後着る予定が立たない着物があるなら、無理にクリーニングに出す前に、着物買取の窓口で査定を受けて今の状態を確認してみるのも一つの選択肢になるだろう。