七五三は数え年で祝うべきなのか、それとも満年齢でよいのか。成人式の年齢は十八歳になったのか、それとも二十歳のままなのか。子どもの成長や自分自身の人生の節目で着物に袖を通すたびに、由来を知らないまま慣習にだけ従っている、という人は案外多いのではないだろうか。七五三・十三参り・成人式・卒業式の袴という四つの人生儀礼が、いつ、どのような経緯で今の形に落ち着いたのかを、記録に残る事実を辿りながら整理してみたい。

髪置き・袴着・帯解き、七五三の原型は公家の三つの儀式だった

七五三のルーツは、江戸時代のかしこまった行事としていきなり生まれたものではない。国立国会図書館のコラムによれば、その源流は公家社会にあり、三歳児の「髪置き」、五歳男児の「袴着」、七歳女児の「帯解き」という、それぞれ独立した通過儀礼が別々に営まれていた。髪置きはそれまで剃っていた髪を伸ばし始める儀式、袴着は初めて袴を身につける儀式、帯解きは幼児用の付け紐をやめて大人と同じ帯を締める儀式で、いずれも子どもの体が一段階成長したことを社会的に認める節目だった。袴着はもともと男女の別なく三歳から七歳の間で行われていたが、江戸時代に入ると五歳の男児だけの風習として定着していく。これらの儀式が近世に入って武家や江戸の裕福な商人にも広がり、子どもの成長を祝って親子で氏神に参詣するという、今日の七五三に近い形が成立した。つまり七五三は、もともと別々の儀式だった三つの通過儀礼が、長い時間をかけて一つの行事に収れんしていったものなのである。

11月15日という日付と、数え年か満年齢かという迷い

七五三が11月15日に定着した理由には、ある将軍家の故事が関わっているとされる。天和元年(1681年)の旧暦11月15日に、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の長男・徳松の髪置き祝いが行われたことが、日付の先例として語り継がれてきた。旧暦の十五日は二十八宿でいう「鬼宿日」、つまり鬼が出歩かないとされる何をするにも吉の日にあたり、加えて旧暦十一月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月でもあった。縁起のよい日と収穫感謝の月が重なる日として、11月15日が選ばれていったと考えられている。年齢の数え方についても迷う人は多いが、本来は数え年で祝うのが古くからの形とされる一方、現代では満年齢で行う家庭も珍しくない。地域による違いもあり、九州の一部や出雲地方などでは祝う年齢や内容そのものが他地域と異なる例も伝わっている。どちらが正しいという単純な話ではなく、地域ごとの慣習が積み重なって今の多様さがあると捉えるのが実情に近い。

「七五三」という呼び名が全国に広まったのは、実は戦後の高度成長期だった

七五三と聞くと古くからの不変の伝統という印象を持ちやすいが、今のような形で全国に定着したのは案外新しい。東京の都市部で庶民にまで七五三の習慣が広まったのは明治時代からで、このころ晴れ着を着せて千歳飴を持たせるという、現在よく知られる形が根付いたとされる。千歳飴自体は江戸時代の飴売りに由来する縁起物だ。ところが「七五三」という呼称そのものが定着し、行事として日本各地に広く浸透したのは第二次世界大戦後、それも高度経済成長期に入った1960年代のことだったと前出の国立国会図書館のコラムは指摘している。それ以前は地域ごとにばらばらだった風習が、戦後の生活の均質化や商業的な後押しを通じて融合し、全国共通の「七五三」という行事に育っていったというわけだ。何百年も変わらず続いてきたように見える行事の輪郭が、実はここ数十年の間に整えられたものだと知ると、次の七五三の見え方も少し変わってくるかもしれない。

七五三の陰に隠れた、十三歳を祝う「十三参り」

七五三ほど知られていないが、十三歳を祝う「十三参り」という儀礼も古くから続いている。伝承によれば、幼くして皇位についた清和天皇が数え年十三歳を迎えた際、成人の証として京都嵐山の法輪寺で勅願法要を営んだことがその始まりとされ、起源は平安時代初期にまでさかのぼる。法輪寺の本尊である虚空蔵菩薩は智恵と福徳をつかさどる仏として古くから信仰を集めており、十三参りは数え年十三歳になった男女がこの虚空蔵菩薩に参拝し、これからの人生に役立つ知恵を授かるよう祈願する行事として受け継がれてきた。現在も参拝者が一字写経を奉納する習わしが残り、特に関西では今も身近な年中行事として親しまれている。七五三が幼児期の成長儀礼であるのに対し、十三参りは思春期の入り口に立つ子どもへの祈願という性格が強く、同じ人生儀礼でも意味合いは少し異なる。

成人式は埼玉県蕨町の「青年祭」から始まった

成人式という行事にも、はっきりとした発祥の地がある。終戦の翌年にあたる1946年、埼玉県北足立郡蕨町(現在の蕨市)の青年団が、敗戦後の虚脱感の中にあった若者たちを励まそうと「青年祭」を企画し、その一環として11月に「成年式」を催した。蕨市の公式サイトによれば、この最初の成年式には約百人の青年が参加し、国民服や作業着姿で式典に臨んだという。この蕨町の取り組みが全国的な注目を集めたことをきっかけに、二年後の1948年、国はこれを「成人の日」として国民の祝日に定めた。一つの町の青年団による地域行事が、そのまま国全体の祝日の起点になったという経緯は、七五三が長い年月をかけて全国行事へと育っていった過程とはまた違う、成人式ならではの成り立ちを示している。蕨市には現在も、この発祥の経緯を伝える記念碑が城址公園に建てられている。

成年年齢は十八歳になったのに、成人式が今も二十歳のままな理由

2022年4月1日、成年年齢を二十歳から十八歳に引き下げる改正民法が施行された。法務省の説明によれば、これは明治9年の太政官布告以来、実に約140年ぶりの改正だという。この改正で、親の同意なしに携帯電話やクレジットカードの契約を結んだり、賃貸住宅を借りたりすることが十八歳から可能になった。一方で飲酒や喫煙、公営ギャンブルの投票券購入が認められる年齢は、従来通り二十歳のまま据え置かれている。法律上の「大人」の線引きが一律に十八歳へ移ったわけではなく、契約の自由と、健康や射幸性に関わる規制とで異なる年齢基準が併存する形になったわけだ。この事情もあって、多くの自治体は成人式の対象年齢を今も二十歳のまま据え置いている。一月という開催時期が高校三年生にとって大学受験の直前にあたり、十八歳を対象にすると欠席者が増えかねないという実務上の事情も理由の一つとされる。

卒業式の袴は、明治の女学校が生んだ「日本初の制服」だった

卒業式で女子学生が袴を着る光景は、古くからの慣習のように見えて、実は明治期に生まれた比較的新しい発明品である。教育者の下田歌子は、皇后に仕えた宮中での経験をもとに、動きやすさと品格を兼ね備えた女性用の袴を考案した。下田歌子が学監を務めた学校の公式サイトによれば、この海老茶色の袴は華族女学校の制服として導入されると瞬く間に人気を集め、「海老茶式部」という言葉まで生まれるほどの流行になったという。当時の記録写真をたどると、1895年頃の女学生の写真にはまだ袴姿がほとんど見られないのに対し、1900年の東京女子高等師範学校の卒業写真では卒業生全員が袴を着用しており、わずか数年のうちに袴が女学生の標準的な装いへと変わっていったことがうかがえる。もともとは行動しやすい制服として広まった袴だが、戦後は洋装の急速な普及とともに日常の装いからは一度遠ざかっていった。それが再び卒業式の定番として戻ってきたのは、1987年に公開された「はいからさんが通る」の映画化がきっかけとなり、1990年代後半に若い女性の間で定着していったためとされている。今日見慣れた「振袖に袴」という卒業式の装いは、明治の実用服と、昭和末から平成にかけての再流行という、二つの時代の重なりの上に成り立っている。

由来を知って迎える、次の晴れの日

髪置き・袴着・帯解きという公家の儀式が積み重なって七五三になり、一つの町の青年団の企画が国の祝日を生み、女学校の実用服が卒業式の定番へと姿を変えていった。こうして経緯をたどると、人生儀礼と着物の結びつきは大昔から一つの形で変わらず続いてきたものというより、時代ごとに意味づけや形を少しずつ更新しながら受け継がれてきたものだとわかる。振袖や被布、袴といった晴れ着が着る機会を終えたまま箪笥の中で出番を待っているなら、次の誰かの晴れの日に託す買取という選択肢も、その歴史の続きの一つとして考えてみてよいだろう。由来を知ったうえで迎える次の七五三や成人式は、これまでとは少し違った感慨を連れてきてくれるはずだ。