着物姿を写真で見るとき、目が行くのはたいてい柄や帯、せいぜい草履までで、その下にどんな小物が着付けを支えているかまで意識することは少ない。けれど実際に着付けを体験してみると、腰紐が何本も必要になったり、伊達締めという聞き慣れない名前の道具が登場したりして、戸惑った経験のある人もいるのではないだろうか。ここでは、帯締め・帯揚げのように目立つことのない腰紐・伊達締め・足袋という三つの小物に絞り、それぞれがどんな経緯でこの形に落ち着き、着姿の中でどんな役目を担っているのかをたどってみたい。
「シタウズ」から続く足袋の歴史
足袋の原型は、奈良時代に「襪(しとうず)」と呼ばれた履物にさかのぼるとされる。指の股が分かれていない鹿皮製の一枚仕立てで、身分の高い者が用いる装束の一部だったという。「単皮(たんぴ)」とも呼ばれ、この呼び名が「足袋」という漢字表記につながったとする説が伝わっている。Wikipediaの足袋の項目によれば、留め具も時代とともに姿を変えてきた。当初は紐で結んで留める方式だったが、木綿製の足袋が広まるにつれてボタン式へと移り、現在おなじみの金属製ホック「小鉤(こはぜ)」が一般に使われ始めたのは江戸後期から明治前期にかけてだという。鎖国政策や明暦の大火で革の入手が難しくなった17世紀半ばには木綿足袋が男女ともに普及し、8代将軍徳川吉宗が鷹狩りの際に紺足袋を履いたことをきっかけに武家から町人へと広がったとも伝わる。丈の短い「半靴」と呼ばれる形が一般化し、色も次第に白と紺へ整理されていった経緯を知ると、今の白足袋の姿がひと続きの変化の果てにあることが見えてくる。
行田はなぜ「足袋のまち」になったのか
足袋の主要な産地として名高いのが、埼玉県行田市だ。利根川と荒川に挟まれたこの土地は、砂質の土壌と豊富な水、夏の高温という条件が綿花や藍の栽培に適しており、地元産の木綿を原料にした足袋づくりが江戸時代中頃から下級武士や農家の女性の内職として始まったとされる。文化庁の日本遺産ポータルサイトによれば、行田の足袋づくりはおよそ300年前に武士の妻たちの内職として始まり、やがて最盛期には全国の足袋のおよそ8割を生産するまでの一大産地に成長したという。明治維新で身分制度が撤廃され、庶民の間でも足袋を履く習慣が一般化したことが需要を押し上げ、明治後半からは生産と保管を兼ねた足袋蔵が街のあちこちに建てられていった。戦後はナイロン靴下の普及や洋装化によって生産量が大きく落ち込んだものの、現在も全国シェアの三割以上を占める産地として存続しており、2019年には経済産業省の伝統的工芸品にも指定されている。一足の足袋の背景に、これほど大きな産業の盛衰があったことは、あまり知られていないのではないだろうか。
一本の紐が着崩れを防ぐ ― 腰紐という道具
腰紐は、着物を体に固定するための紐で、単に腰に締めるだけでなく、長襦袢を着るときの仮どめや、おはしょりを整えるとき、補正のために使うタオルを固定するときなど、着付けの複数の場面で登場する。浴衣なら2〜4本、着物なら3〜6本ほどが目安とされ、結び方や帯結びの種類によって必要な本数は変わってくる。素材にはモスリン(ウール)、正絹、綿、麻、ポリエステル、伸縮性のあるゴム紐などがあり、初めて揃えるならモスリン製がすすめられることが多い。適度な摩擦でしっかり締まりながらも締めすぎにならず、絹製品のように扱いに神経を使わずに済むためだ。帯や着物そのものに比べれば地味な存在だが、これが緩めば着崩れが進み、きつすぎれば苦しくなるという意味で、着姿全体の土台を支えているのはこの一本の紐だといえる。同じ和装小物として名前が挙がりやすい帯締め・帯揚げが帯の上で見た目を整える役割を担うのに対し、腰紐はその下でひたすら実用に徹する道具という違いがある。
伊達締めの「伊達」とは何を意味するのか
腰紐の上からさらに締めて、長襦袢や着物の衿元と裾線を安定させるのが伊達締めだ。博多織や綸子、近年ではマジックベルト式のものなど素材や形状はさまざまだが、共通するのは腰紐よりも幅広く、体に沿わせて締めることでおはしょりや衿の乱れを防ぐという役割になる。ところでこの「伊達」という言葉、伊達巻や伊達眼鏡にも使われる言葉で、もとは「男を立てる」という言い回しから、意気や粋を示す振る舞いを指すようになったとされる。Wikipediaの伊達の項目によれば、戦国武将の伊達政宗の家臣たちが華美な装いで京へ上ったという逸話が、この言葉のイメージを世に広めたと考えられているが、これはあくまで言葉の定着を後押しした逸話であり、語源そのものとは区別される「民間語源」だと説明されている。伊達巻が「見た目に工夫を凝らした洒落た卵焼き」という意味で名付けられたのと同じように、伊達締めもまた、着崩れを防ぎながら着姿をきりっと引き締めて見せる道具として、この「伊達」の名を与えられたと考えると腑に落ちる。実用一辺倒に見える小物の名前にも、こうした言葉の背景が隠れている。
長襦袢という下着はいつ、どうして生まれたのか
足袋や腰紐、伊達締めと並んで着姿を陰で支えているのが、着物の下に着る長襦袢だ。そもそも「襦袢」という言葉自体、16世紀の南蛮貿易を通じて伝わったポルトガル語「ジバゥン(gibão)」を音写したものとされ、和装の歴史の中では比較的新しい部類の言葉になる。Wikipediaの襦袢の項目によれば、江戸時代前期まで正式な下着とされていたのは、腰までの丈しかない半襦袢で、これは腰巻と組み合わせて着用するものだった。今のように裾まである長襦袢は、遊女が部屋着として考案したものが富裕な商人たちの間に広まっていったのが始まりとされ、当初から贅を凝らした装いとして位置づけられていたことがうかがえる。長襦袢の衿元には、着物や帯の色柄と調和する半衿を縫い付けて使うのが習わしで、これは単なる汚れ防止だけでなく、衿もとの印象を細やかに調整するための工夫でもある。普段は着物の下に隠れて見えない長襦袢だが、実は袖口や裾からわずかにのぞく色柄が着姿全体の印象を左右する、隠れた主役でもある。
見えない部分にこそ、着物の手間は宿っている
足袋のこはぜ、腰紐の締め加減、伊達締めの名前の由来、長襦袢の成り立ち――こうして一つひとつをたどってみると、着物という装いが帯や柄といった目立つ部分だけでなく、普段は視界に入らない小物の積み重ねによって成立していることが分かる。しかもそれぞれの小物には、材質や産地、時代背景にまつわる固有の歴史があり、単なる実用品として片づけるにはもったいない厚みがある。腰紐や伊達締めは消耗すれば買い替えられる存在だが、その奥のたんすにしまわれたままの着物そのものについては、袖を通す機会がないまま眠っているという家庭も少なくないだろう。もし手持ちの着物を見直す機会があれば、着物買取という形で次の持ち主に託す道も、選択肢のひとつとして考えてみてもよいかもしれない。