着物姿を美しく見せる主役は帯や柄だが、実際に着姿を支えているのは、写真には写らない場所にある小物たちだ。腰紐は着物を体に固定する要であり、伊達締めは衿元と裾線を安定させ、足袋は素肌を見せずに履く唯一の履物として礼装から普段着まで場面ごとに使い分けられる。三つとも地味な存在でありながら、腰紐はおはしょりの成立と結びついた1664年の織物寸尺制、足袋は奈良時代の「襪(しとうず)」、伊達締めは戦国武将・伊達政宗にまつわる逸話と、それぞれに現在の形へ落ち着くまでの長い変遷を持つ。

この記事では、足袋の起源とこはぜの枚数に見る地域差、埼玉県行田市が「足袋のまち」になった経緯とそこから枝分かれした地下足袋、腰紐と「おはしょり」の歴史的なつながり、伊達締めの名前の由来と素材ごとの選び方まで、一次資料に基づいて詳しく解説する。

「シタウズ」から続く足袋の歴史

足袋の原型は、奈良時代に「襪(しとうず)」と呼ばれた履物にさかのぼるとされています。指の股が分かれていない鹿皮製の一枚仕立てで、身分の高い者が用いる装束の一部だったそうです。「単皮(たんぴ)」とも呼ばれていて、この呼び名が「足袋」という漢字表記につながったという説も伝わっています。留め具のかたちも、時代とともに少しずつ移り変わってきたことが、Wikipediaの足袋の項目に記されています。当初は紐で結んで留める方式でしたが、木綿製の足袋が広まるにつれてボタン式へと移り、今おなじみの金属製ホック「小鉤(こはぜ)」が一般に使われ始めたのは、江戸後期から明治前期にかけてだそうです。鎖国政策や明暦の大火で革の入手が難しくなった17世紀半ばには木綿足袋が男女ともに普及し、8代将軍徳川吉宗が鷹狩りの際に紺足袋を履いたことをきっかけに、武家から町人へと広がったとも伝わっています。丈の短い「半靴」と呼ばれる形が一般化し、色も次第に白と紺へ整理されていった経緯を知ると、今の白足袋の姿がひと続きの変化の果てにあることが見えてきますね。

白足袋・黒足袋・色足袋、履き分けにも格がある

足袋にも、着物と同じように色による使い分けがあります。白足袋が「清浄を示す象徴」とされていて、平服から礼服まで幅広く着用できる唯一の色であることは、Wikipediaの足袋の項目でも説明されていますね。能舞台や土俵のように特定の場では、白以外の着用そのものが認められていません。黒足袋は男性が平服のときにのみ用いるもので、女性が礼装で黒足袋を履くことはありません。色足袋・柄足袋は女性が普段の装いで使うもので、こちらは礼装には向きません。同じ「足袋を履く」という所作のなかに、性別と場面で選べる色がはっきり分かれている点は、洋服の靴下にはまず見られない発想です。

こはぜは四枚か五枚か ― 見えない部分に宿る地域差

足袋を留める金具「こはぜ」の枚数にも、実は地域や場面による好みの違いがあります。大人用の足袋では4枚と5枚がもっとも一般的で、子供用は3枚、祭りや農作業で使う地下足袋になると7〜12枚まで数が増えることもあります。日本舞踊の稽古や舞台では、踊っている最中に足首から素肌がのぞかないよう、5枚こはぜの足袋が好まれます。関西地方でも、足首を見せないことを奥ゆかしいとする美意識から、5枚こはぜが選ばれやすいそうです。一方、粋を身上とする関東地方では、あえて足首を見せる4枚こはぜのほうが好まれてきた歴史があり、普段着として着物をまとうときや、旅館の仲居さんが履く足袋も4枚こはぜが多いとされています。礼装の場では5枚こはぜが基本、とされることが多いのですが、これも絶対の決まりというより、こうした地域差や美意識の積み重ねの延長線上にあるルールだと考えると、ぐっと理解しやすくなりますね。こはぜの枚数という細部にまで、着る人の暮らす土地の美意識が映り込んでいるのです。

行田はなぜ「足袋のまち」になったのか

足袋の主要な産地として名高いのが、埼玉県行田市です。利根川と荒川に挟まれたこの土地は、砂質の土壌と豊富な水、夏の高温という条件が綿花や藍の栽培に適していて、地元産の木綿を原料にした足袋づくりが、江戸時代中頃から下級武士や農家の女性の内職として始まったとされています。明治維新で身分制度が撤廃され、庶民の間でも足袋を履く習慣が一般化したことが需要を押し上げ、明治後半からは生産と保管を兼ねた足袋蔵が街のあちこちに建てられ、最盛期には全国の足袋のおよそ8割を生産するまでの一大産地に成長しました。2019年(令和元年)には経済産業省の伝統的工芸品に指定された、とWikipediaの行田足袋の項目は伝えていますが、その裏側で産業規模は大きく縮小しています。生産量は最盛期の40分の1にまで落ち込み、2010年時点で足袋製造を専業とする事業所は1社のみ、2017年時点でも足袋関連企業は約30社にとどまります。それでも全国シェアの35%を占め、今も日本一の足袋産地であり続けている点は変わりません。一足の足袋の背景に、これほど大きな産業の盛衰があったことは、案外知られていません。

足袋から地下足袋へ ― ゴム底が生んだもう一つの系譜

布と鹿革でできていた足袋は、明治時代に入るともう一つの系譜を生み出します。それが、底にゴムを貼り付けた「地下足袋」です。地下足袋の起源をたどる記録によれば、明治15〜16年頃、江戸・神田末広町にあった松田商会という店が、職人や農家向けにゴム底足袋の専売特許を取って売り出したのが元祖とされています。それまでの足袋は布や革の底のまま履くものだったため、屋外での作業には向いていませんでしたが、ゴム底の登場によって、履物を履き替えずに足袋の感覚のまま外で働ける実用品へと生まれ変わりました。大正から昭和にかけて底の波型やクッション性が改良され、今では祭りの担ぎ手が好むエアークッション入りのタイプにまで進化しています。黒くしなやかな地下足袋は忍者を連想させる商品として売られることもありますが、地下足袋そのものはゴム産業が育った明治以降に生まれた実用品で、時代劇に描かれるような戦国期の忍者が実際に履いていたわけではありません。同じ「足袋」の名を持ちながら、礼装用の白足袋とはまったく違う道を歩んできたのが、この地下足袋なんですね。

一本の紐が着崩れを防ぐ ― 腰紐という道具

腰紐は、着物を体に固定するための紐で、単に腰に締めるだけでなく、長襦袢を着るときの仮どめや、おはしょりを整えるとき、補正のために使うタオルを固定するときなど、着付けの複数の場面で登場します。実は、この「おはしょり」という着姿そのものが、腰紐の存在と切り離せない歴史を持っています。Wikipediaのおはしょりの項目によれば、1664年に定められた「織物寸尺制」で反物が2尺長くなり、女性用の長着の着丈も長くなったことで、裾の長さを調整する必要が生じたのが直接のきっかけだそうです。江戸時代中期には「褄取」「抱帯」「しごき帯」など複数の調整方法が並行して使われていましたが、明治以降になって、下締め、つまり腰紐で持ち上げた部分を先に固定してから帯を巻くという、今と同じやり方に落ち着いていったといいます。普段何気なく結んでいる腰紐の向こうには、江戸から明治にかけての長い試行錯誤が積み重なっています。浴衣なら2〜4本、着物なら3〜6本ほどが目安とされ、結び方や帯結びの種類によって必要な本数は変わってきます。素材にはモスリン(ウール)、正絹、綿、麻、ポリエステル、伸縮性のあるゴム紐などがあり、初めて揃えるならモスリン製がすすめられることが多いようです。適度な摩擦でしっかり締まりながらも締めすぎにならず、絹製品のように扱いに神経を使わずに済むためです。帯や着物そのものに比べれば地味な存在ですが、これが緩めば着崩れが進み、きつすぎれば苦しくなる、という意味で、着姿全体の土台を支えているのはこの一本の紐なんです。同じ和装小物として名前が挙がりやすい帯締め・帯揚げが、帯の上で見た目を整える役割を担うのに対して、腰紐はその下でひたすら実用に徹する道具、という違いがあります。

伊達締めの「伊達」とは何を意味するのか

腰紐の上からさらに締めて、長襦袢や着物の衿元と裾線を安定させるのが伊達締めです。博多織や綸子、近年ではマジックベルト式のものなど素材や形状はさまざまですが、共通するのは腰紐よりも幅広く、体に沿わせて締めることでおはしょりや衿の乱れを防ぐという役割です。この「伊達」という言葉、伊達巻や伊達眼鏡にも使われる言葉で、もとは「男を立てる」という言い回しから、意気や粋を示す振る舞いを指すようになったとされています。戦国武将の伊達政宗の家臣たちが華美な装いで京へ上ったという逸話が、この言葉のイメージを世に広めたと考えられていますが、Wikipediaの伊達の項目によれば、これはあくまで言葉の定着を後押しした逸話であって、語源そのものとは区別される「民間語源」だと説明されています。伊達巻が「見た目に工夫を凝らした洒落た卵焼き」という意味で名付けられたのと同じように、伊達締めもまた、着崩れを防ぎながら着姿をきりっと引き締めて見せる道具として、この「伊達」の名を与えられたと考えると、腑に落ちます。

伊達締めの素材で変わる着け心地

伊達締めは素材によっても、締め心地や向く季節が変わってきます。博多織や正絹のものは、経糸を細く密に、緯糸を太くして織り上げることで独特のハリとコシが生まれ、一度締めると緩みにくいのが長所で、価格はおよそ4,000円から20,000円程度と幅があります。対してポリエステルなどの化学繊維は、シワになりにくく洗濯もできる手軽さがあり、1,000円台から手に入りますが、正絹に比べると通気性では一歩譲ります。シャーリング加工を施したナイロン製は体に沿ってフィットし、長時間着けていても苦しくなりにくいという長所を持っています。季節で選ぶなら、春や秋は通気性と保温性を両立できる正絹、汗をかきやすい夏は通気性や吸湿性を重視した素材、冷え込む冬は保温性の高い正絹が向くとされています。一本ですべての季節をまかなうのではなく、体感や着用時間に合わせて素材を使い分けている着物好きの方も、意外と多いんですよ。

長襦袢という下着はいつ、どうして生まれたのか

足袋や腰紐、伊達締めと並んで着姿を陰で支えているのが、着物の下に着る長襦袢です。そもそも「襦袢」という言葉自体、16世紀の南蛮貿易を通じて伝わったポルトガル語「ジバゥン(gibão)」を音写したものとされていて、和装の歴史の中では比較的新しい部類の言葉になります。江戸時代前期まで正式な下着とされていたのは、腰までの丈しかない半襦袢だったそうです。Wikipediaの襦袢の項目によれば、これは腰巻と組み合わせて着用するものでした。今のように裾まである長襦袢は、遊女が部屋着として考案したものが富裕な商人たちの間に広まっていったのが始まりとされていて、当初から贅を凝らした装いとして位置づけられていたことがうかがえます。長襦袢の衿元に縫い付ける半衿がいつ、どんな経緯で生まれたかについては「長襦袢と半衿はなぜ生まれたのか」で詳しく書いていますので、よろしければあわせてご覧ください。

見えない部分にこそ、着物の手間は宿っている

足袋のこはぜの枚数、行田という産地の盛衰、そこから枝分かれした地下足袋、おはしょりと結びついた腰紐の歴史、伊達締めの名前の由来と素材選び、長襦袢の成り立ち――こうして一つひとつをたどってみると、着物という装いが帯や柄といった目立つ部分だけでなく、普段は視界に入らない小物の積み重ねによって成立していることが分かりますね。しかもそれぞれの小物には、材質や産地、時代背景にまつわる固有の歴史があって、単なる実用品として片づけてしまうには、もったいない厚みがあります。腰紐や伊達締めは消耗すれば買い替えられる存在ですが、その奥のたんすにしまわれたままの着物そのものは、袖を通す機会がないまま眠っている、という家庭も少なくありません。もし手持ちの着物を見直す機会があれば、着物買取という形で次の持ち主に託す道も、選択肢のひとつとして考えてみてはいかがでしょうか。