着物姿の日本人といえば、多くの人がまず思い浮かべるのは江戸時代の風景か、あるいは戦争で何もかも失われる直前の写真だろう。ところが着物が日常着でなくなっていく流れは、黒船来航からわずか十数年後の明治初期、それも庶民ではなく官吏や軍人という「上」の側からすでに始まっていた。なぜ洋装は特権階級の制服として広まりながら、女性や庶民の間ではなかなか浸透しなかったのか。史料に残る数字を手がかりに、明治から現在まで続く150年あまりの変化をたどってみる。

洋装は「制服」として、まず官吏と軍人から始まった

洋装が日本に広まっていく最初の一歩は、庶民の暮らしではなく、政府の制度として踏み出された。明治5年(1872年)、太政官布告第339号「大礼服汎則」により、軍事以外の行政を担う文官の礼装が洋装に統一される。帽子や上衣、下衣の生地や寸法、飾章の付け方まで事細かに定められたこの規則は、新年の拝謁や紀元節など格式の高い場での服装を、それまでの装束から一変させるものだった。翌明治6年(1873年)には太政官布告第328号「陸軍武官服制」が制定され、陸軍の将校・下士卒はフランス式の紺色の軍服を身にまとうことになる。西洋列強と対等な近代国家であることを内外に示すため、まず軍と官という「国家の顔」となる立場から洋装化が進められたわけだ。

鹿鳴館の欧化政策と、数年で萎んだ女性洋装の第一波

女性の洋装化はさらに一段遅れて、そして不安定な形で始まった。明治16年(1883年)、東京・日比谷に社交場「鹿鳴館」が竣工すると、政府の欧化政策の拠点として舞踏会が開かれるようになり、高官や華族の夫人たちが洋装で集うようになる。明治19年(1886年)6月には宮内大臣内達により宮中の婦人服制がフランス式の礼服として四段階に定められ、翌明治20年(1887年)1月には皇后から国産洋服の着用を呼びかける思召書も出された。ところがこの流行は長続きしなかった。着慣れないコルセットに苦しめられる夫人が多く、鹿鳴館時代の女性洋装ブームはわずか数年で下火になったとされる。上流階級の女性でさえ、洋装は簡単に根付く服装ではなかったのだ。

女学校が生んだ中間形態――えび茶袴からセーラー服へ

官や軍とは別の道筋で洋装化を後押ししたのが、女学校という教育の現場だった。明治20年代以降、女学生の間には、着物の上に海老茶色などの袴を合わせる「女袴」姿が急速に広まる。動きやすさを保ちながら和装の枠内に収まるこの装いは、いわば和と洋の折衷形だった。そこからさらに一歩進んだのが、大正10年(1921年)9月に名古屋の金城学院が日本で初めて女学生の制服として採用したセーラー服である。この学校では大正8年(1919年)に定めた和服の制服、翌大正9年(1920年)の洋装推奨という段階を経ており、セーラー服はその延長線上に登場した。安価で製作しやすく、一目で女学生と分かるという実用面の利点も、その後全国の女学校へセーラー服が広まっていく決め手になった。

「銀座の女性の99%は和服だった」――大正14年の街頭調査

実際、庶民や一般女性の間で洋装がどれだけ浸透していたかを示す興味深い記録がある。考現学の創始者として知られる今和次郎は、大正14年(1925年)5月に東京・銀座の通りを歩く人々の服装を一人ひとり観察して記録するという街頭調査を行った。国立公文書館アジア歴史資料センターの資料によれば、この調査で男性の67%が洋服姿だったのに対し、女性で洋服を着ていたのはわずか1%、残る99%は和服姿だったという。明治5年の大礼服制定からすでに半世紀が過ぎ、鹿鳴館の欧化政策からも40年以上が経過していたにもかかわらず、当時最先端の流行発信地だった銀座でさえ、女性の装いは圧倒的に和服が占めていたことになる。制度としての洋装化と、実際の暮らしの中での洋装化の間には、これほど大きな時間差があったわけだ。

もんぺが着物を追いやった、戦時下の婦人標準服

日中戦争が長期化した昭和10年代に入ると、女性の服装は国家の統制下に置かれるようになる。「贅沢は敵だ」のスローガンのもと華美な装いが規制され、昭和17年(1942年)には厚生省が主導する形で、動きやすく防火性にも優れたもんぺが「婦人標準服」として普及運動の対象になった。空襲への備えとして着用が半ば義務付けられるようになると、晴れ着はもちろん普段着の着物すら、もんぺの下に着込む肌着的な存在に追いやられていく。戦後の物資不足の時期には、このもんぺの生地をスカートなどに仕立て直す「更生服」が作られるようになり、和装から洋装への切り替えは、皮肉にも戦時体制と戦後の窮乏という二つの強制的な局面を経て一気に進むことになった。

戦後の洋裁ブームと、呉服市場のピークからの急落

戦後は物資不足からの「更生服」に始まり、家庭用ミシンの普及とともに女性たちの間で洋裁ブームが起こり、既製服産業も急速に発達していく。もっとも、着物がそのまま日常から姿を消したわけではない。成人式や七五三、結婚といった人生の節目の装いとして根強い需要が残り、高度経済成長期からバブル期にかけて呉服業界はむしろ好況を迎えた。経済産業省の資料によれば、呉服の小売市場規模は昭和56年(1981年)に1兆7,667億円というピークを記録している。ところがそこから約40年で市場は急激に縮小し、令和5年(2023年)の推定市場規模は2,077億円と、ピーク時の1割強にまで落ち込んだ。婦人用着物の購入単価も、平成2年(1990年)ごろのピーク時には1万3,628円だったものが、令和5年には1,139円まで下がっており、日常着としてだけでなく「特別な買い物」としての着物の位置づけそのものが、この数十年で大きく変わったことがうかがえる。

この150年の流れから見える、着物という装いの現在地

明治5年の大礼服にはじまり、鹿鳴館、女学校のセーラー服、そしてもんぺと、着物が「日常着」の座を追われていく過程は、江戸から明治への政権交代のようにある日突然起きたわけではなく、150年近くかけて段階的に進んできたことが分かる。だからこそ現在、着物は普段着としてではなく、成人式や結婚式、七五三といった人生の節目を彩る特別な装いとして受け継がれている。その一方で、たんすの奥にしまわれたまま何十年も袖を通されずにいる着物も少なくないだろう。もし手持ちの着物や譲り受けた着物の活かし方に迷ったときは、こうした歴史的な背景も踏まえつつ、着物買取のような専門の窓口に相談してみるのも一つの選択肢になる。