熊谷うちわ祭りの由来と赤飯が廃れた理由

「熊谷うちわ祭り」と聞くと、特に遠方にお住まいになられている方は、「団扇(うちわ)との関連性や由来等に関して、不思議に感じられた方も居られると思います。

開催期間中に近くを通りかかり、特に企業の宣伝でも無いのにうちわを配っている所を見かけ、「熊谷うちわ祭り」を知るキッカケになったと言う方も居られると思います。

 

「熊谷八坂神社祭礼行事」とも呼ばれ、毎年、7月の20日・21日・22日の3日間に渡り開催され、「熊谷市指定無形民族文化財」に指定されています。

「熊谷夏の風物詩」の一つでもあり、「関東一の祇園」と言われる位の大規模な祭りで、「叩き合い」と呼ばれる大音量の囃子の音と共に、巨大な山車を2台以上競わせる姿は、一度見ると忘れられない言われています。

 

また、「叩き合い」に使用される山車」は、非常に珍しい「可動式三輪」を採用しており、上手く方向転換をする事が可能で、実際に山車を運転する人も存在します。

 

熊谷うちわ祭りの由来

当時、埼玉県熊谷市の「愛宕八坂神社(あたごやさかじんじゃ)」で行われる「例大祭」では、毎年、「厄除け」として「赤飯」が振る舞われ、「熊谷の赤飯振る舞い」として有名でした。

その後、泉屋横丁に店を構える「泉州」と呼ばれる老舗料亭の5代目主人が、赤飯の変わりに「泉州」と言う店名の書かれた「うちわ」を配り始めたのが由来と言われています。

 

高級団扇の老舗、「伊場仙」製のうちわを配っていましたので、「粋(いき)なはからい」として喜ばれ、「伊場仙」製に限らず、「うちわ」を配る事自体も、当時は喜ばれたと言われています。

「赤飯」よりも手間や費用が掛からず、自分のお店の宣伝も出来るとして、周辺の商店街等はこぞって真似をした事が、「熊谷うちわ祭り」と呼ばれるようになった由来だと言われています。

 

「うちわ」は、日本一暑い「熊谷市」では、最早「生活必需品」の一つとされていた時代も有り、「赤飯」よりも喜ばれたと言われています。

 

江戸時代の終わりに近づいた頃では、祭りの日になると比較的高価な「赤飯」を炊きました。

 

「赤飯」を炊く理由は、単純に縁起が良いと言うだけでは無く、赤色である事も重要で、古来より「邪気払い」が期待されている色で、神社等を見れば納得出来ると思います。

ちなみに、「赤飯」「小豆」は割れやすく、「切腹」を連想させてしまうと言う事も有り、関東ではあまり使用しません。

 

熊谷うちわ祭りの場所、交通規制と歩行者天国」の記事も参考にしてみて下さい。