端午の節句は、中国の「屈原(くつげん)」と言う政治家を弔う行事が、奈良時代に入って来たのが始まりです。
日本でも「ドラゴンボートレース」と言う競技が有りますが、これも「屈原」を弔う行事が由来だと言われています。
現在の端午の節句は「餅米」を使用した物が一般的ですが、当時の「ちまき」は、中国で言う所の「肉粽(ローツォン)」から来ており、「ちまき」は漢字で「粽」と書きますので、ちまきの由来は中国の肉粽です。
「屈原」とちまき
屈原は、中国でも人気が高い人物の1人で、叙事詩「離騒(りそう)」は現在でも多くの方の心を打ち、愛されています。
愛国心に溢れた政治家「屈原」は、「讒言(ざんげん)」の策略に嵌り、楚の国の王によって楚を追放されてしまいます。
誰よりも楚の繁栄に助力しようとした屈原は、楚の国そのものから裏切れたような状態になり、楚の未来を悲観します。
結果的に、川へ投身してしまい、その素晴らしい生涯に自ら幕を下ろしてしまいます。
川へ屈原が沈んでしまった時、どうしても魚等が集まってしまいますが、楚の民が必死にそれを止めさせようとしました。
ある者は「太鼓」を叩き、魚を退け、ある者は「肉粽」を川に沈める事によって、魚に餌を与えました。
その時の「太鼓」を叩いた船が現在の「ドラゴンボートレース」の由来となり、「肉粽」が「ちまき」の由来です。
当時は、「屈原」の楚の国への尽力を讃え、国の繁栄を祈り、川へ肉粽を捧げる行事が端午の節句でした。
日本での端午の節句とちまき
一般的にちまきを覆う葉は「笹」を使用しており、竹は「神聖」な物とされ、その「繁殖力」「環境適応能力」は、「鯉のぼり」の鯉に似ています。
また、ちまきを覆う笹の葉には「無病息災」と言う意味も有りますので、縁起を担ぎ、竹のように立派に育って欲しいと言う願いも込めれていたのが由来だと言われています。
現在のような、5月5日の端午の節句としての形が整ったのは、「徳川幕府」の時代になってからで、この時代には「儀式寄りの行事」として武家社会を中心に周知されていました。
以前は「ちまき」や「菖蒲」、「吹き流し」を節句に厄除けや健康祈願に行う程度でした。
この頃から、「将軍」や「武家」に「男の子」が生まれて来る事を祝う行事として確立して行き、現在の端午の節句の流れが出来上がりました。
そして、江戸時代中期頃に差し掛かる頃には、「武家」だけでは無く、「平民」の間にも広く浸透し、「鯉のぼり」が盛んになったのもこの頃だと言われています。
「鯉のぼりの吹き流しに意味は有る?実際の所」の記事も参考にしてみて下さい。