京都円山公園の枝垂れ桜を堪能する為に

京都の円山公園は、市内最古の公園としても有名で、円山公園のほぼ中央に位置する大きな枝垂れ桜は、「一重白彼岸枝垂れ桜(ヒトエシロヒガンシダレザクラ)」と言う品種名です。

「円山の枝垂れ桜」「祇園の夜桜」としても有名で、この円山公園の大きな枝垂れ桜は2代目で、樹齢は90年近くも有ります。

 

初代の京都円山公園の大枝垂れ桜

初代の京都の円山公園の枝垂れ桜の樹齢は220年位だったと言われており、高さ12メートル以上、幹周4メートルと言う巨木でした。

「天然記念物」として指定されていましたが、昭和22年、西暦で言うと1947年頃に枯れてしまい、惜しまれつつ、その役目を終えてしまいました。

 

現在の枝垂れ桜は、初代から種子を受け継いだ正統な桜で、昭和24年、西暦で言うと1949年頃に植えられました。

 

円山公園の枝垂れ桜に関する方

現在の2代目枝垂れ桜を植えたのは、15代目「佐野 藤右衛門(さの とうえもん)」と言われており、「佐野 藤右衛門」は、由緒ある「庭師」の家系で、代々「植藤」の当主が名乗るようになっています。

現在でも16台目がご活躍されており、日本だけでは無く、世界中でご活躍されています。

 

「イサム・ノグチ」が設計された、パリの「ユネスコ日本庭園」を手掛けた事でも有名で、カナダ「オタワ国立人類学博物館」「バンクーバー新渡戸稲造記念館」ハワイ「平等院庭園」等、様々な庭園を手掛けられている事でも有名です。

 

当時の京都の円山公園

平安時代当時は、京都の円山公園周辺は、「真葛ヶ原(まくずがはら)」として知られており、当時は「眞葛ヶ原」と呼ばれていました。

「眞葛」と呼ばれる理由は、平安時代当時、円山公園周辺に「眞葛」が沢山茂っていたからと言われています。

 

その後、江戸時代に、「慈円山安養寺(じえんざんあんようじ」の敷地の一部になりました、「明治維新廃坊」によって没収されました。

江戸時代当時は「まるやま」では無く、「えんざん」と呼ばれていました。

 

現在では、円山公園は京都市が管理し、「明治維新廃坊」によって没収された末寺、「左阿彌」は、「左阿彌(さあみ)」と言う料亭として現在でも営業されています。

「左阿彌」は当時、「織田信長」の甥にあたる「織田頼長」によって建てられました。

 

また、当時から現在の円山公園の形が存在していたと言う訳では無く、大正2年、西暦で言うと1913年に「回遊式庭園」になりました。

「回遊式庭園」とは、文字通り「回遊」しながら鑑賞する事が出来る庭園の事を意味し、庭園の「集大成」とも言われています。

 

京都には円山公園以外にも「桂離宮」「鹿苑寺」「慈照寺」「天龍寺」「西芳寺」「二条城二之丸」「醍醐寺三宝院」の庭園が有名です。

京都の夜桜「円山公園のかがり火と注意点」」の記事も参考にしてみて下さい。