端午の節句がユネスコ登録、実際の所と歴史

日本の端午の節句は、中国から伝わった行事で、当時は「ちまき」を食べる位でしたが、「徳川幕府」の時代頃から、「武家社会」を中心に「鯉のぼり」「武者人形」等、現在に近い形が出来上がりましたが、少し違います。

江戸時代の中頃になり、庶民にも端午の節句が広がる頃、現在の形が出来上がりました。

 

つまり、中国から来た文化である事には違い有りませんが、日本に伝わり、時代の流れと共に、日本独自の端午の節句が出来上がりました。

時代は流れ、そう言った形の無い文化を守り、正しく継承して行く為に、「ユネスコ無形文化遺産」と言う事業が開始されました。

 

中国の文化は古く、素晴らしい物も多いので、「ユネスコ無形文化遺産」に認められる物も多かったのですが、「端午の節句」は申請されていませんでした。

韓国には「江陵端午祭」と言う行事が有り、2005年にユネスコに「世界無形文化遺産」として認められました。

 

ここまでは良いのですが、中国の「端午の節句」と共に文化遺産として登録するように持ちかけた時に、韓国の学者が猛反発した事が、物議を醸す原因になりました。

申請する時は、中国・韓国で「江陵端午祭」として登録するように韓国が打診しましたが、端午の節句との関わりが深い人物「屈原」が身投げした川は、「江陵」では無く、「汨羅(べきら)」です。

 

韓国の「江陵端午祭」と端午の節句

韓国の「端午の節句」とも言われている「江陵端午祭」も5月5日に行われる「韓国3大名節」の一つです。

「タノ」とも呼ばれ、「健康祈願」と「身体を鍛える」を祈る「農耕行事」の一つで、男性と女性のお面をかぶり、「スリチトッ」と呼ばれる草餅の一種を分かち合い、「ブランコ」「相撲」をして皆と遊び、1年の収穫を感謝する文化です。

 

中国の楚の国の悲劇の政治家、「屈原」が川へ投身してしまい、この世を去った事を弔う行事が始まりの端午の節句とは大きく異なります。

 

ユネスコの「無形文化遺産」

「歴史的建造物」等の形が有る物では無く、「民族」「伝統」等、歴史的価値が有る物を「保護」し、正しい形を後世に残す事を目的で開始された事業です。

「慣習」「知識」「叙事詩」「祭り」「儀式」「人形劇」等がユネスコ無形文化遺産に認めれており、中国には2016年現在で37種類以上も登録されており、日本には、22種類以上が登録されています。

 

韓国には、16種類以上の無形文化遺産がユネスコに登録されており、「端午の節句」に近い行事「江陵端午祭」が2005年に認めれています。

端午の節句のちまきの由来と歴史的背景」の記事も参考にしてみて下さい。